では、自分の重荷を負うことについてはどうなのでしょうか。ああ、それを負うのは「わたしたちの内にあって働く神の力」です。「わたしはキリストと共に十字架につけられた、生きているのは、もはや、わたしではない。キリストがわたしのうちに生きておられるのである」。それはわたしであるが、わたしではなく、わたしの内なるキリストです。このキリストの教訓をまだ学んでいない人が世には多すぎるほどいます。だから神の子どもは皆、常に、他人の重荷を負うということに、なすべき働きを見出します。自分の心だけで精一杯な者をさがすために、彼自身のものは主に預けます.わたしたちの肩に落ちる重荷の下には、常に「力あるかた」がおられるというのは祝福ではないでしょうか。
この教訓をわたしたちはキリストの生涯から学ぶのです。彼は良いことをしようと出て行かれました。神が彼と共におられたからです。彼は嘆く者を慰め、傷ついた心をいやし、悪鬼に悩まされていた者を皆いやされました。悲しい話や病気に悩んで彼のところに来た者で、たれひとりとして救われないで戻った者はいませんでした。「これは、預言者イザヤによって『彼は、わたしたちのわすらいを身に受け、わたしたちの病を負うた』と言われた言葉が成就するためである」(マタイ8:17)。それから夜がきて群衆か眠りにつくころ、キリストは山ヤ森に行かれ、天父との交わりを求められました。父によって彼は生きておられました。彼は、ご自分のための命とカの新鮮な供給を見出すためにそのようにされました。「ひとりびとり、自分の行いを検討してみるがよい」。「あなたがたは、はたして信仰があるかどうか、自分を反省し、自分を吟味するがよい。それとも、イエス・キリストがあなたがたのうちにおられることを、悟らないのか」(第2コリント13:5)。
「彼は弱さを通して十字架につけられたけれども、神の力によって生きておられる。わたしたちもまた彼と共に、弱いけれども神の力によって彼と共に生きるためである」(4欄外註)。だからもしわたしたちの信仰が、キリストがわたしたちのうちにおられることを証明するなら一そして信仰は事の現実をわたしたちに確証します一、わたしたちは他の人の内にではなく、たた自分自身の内に喜びを持ちます。わたしたちは主イエス・キリストを通して神を喜びます。そしてわたしたちの喜びは世の何ものにも依存しません。だれもがあやまちを犯し、失敗するけれども、わたしたちは立つことができます。なぜなら神の上台、キリストは堅く立っているからです。

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