2022年10月13日木曜日
大いなる幸いはどこにあるか
主を知ったことのある人であればだれでも、彼を受けいれると喜びがあることがわかっています。新しい回心者は輝くような顔をし、喜びに満ちた証をすることがいつでも期待され
ます。それはガラテヤ人たちもずっとそうでした。しかし、今彼らの感謝の表現は口論と争いに代わってしまいました。ガラテヤ5章15節を見てください。人々が、古くからのクリスチャンが若い回心者たちと同じくらいの熱心さ持っていることを期待せず、初めの喜びと初めの愛の暖かさが次第に衰えていくことを、当然のことだとしているのは奇妙なことではないでしようか。そういうことがあるかもしれませんが、そうであるべきではないのです。神がその民に反論しておられるのは、彼らが初めの愛を失ってしまったことです(黙示録2:4)。「正しい者の道は、夜明けの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる」(歳言4:18)。これが正しい人の道だということ、また正しい人とは信仰によって生きる人であることに注意してください。人が信仰からそれたり、行いを信仰にとって代わらせたりしようとする時、光は消えていきます。イエスは、「わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである」と言われました(ヨハネ15:11)。彼は悲しみにかえて喜びの油―聖霊――を与えて下さり、それは永続的です。命はわたしたちが喜びで満たされるために現わされました(第1ヨハネ1:1-4)。いのちの泉は決して尽きることはありません。その供給は決して減ることがありません。ですから、もしわたしたちの光が弱くなっていき、喜びが活気のない単調な骨折り仕事にとって代わられるとすれば、わたしたちは命の道からそれてしまっているのだと知ることができるでしょう。 EJワゴナー よきおとずれ
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