さて、この例証を罪との戦いの場合に当てはめてみましょう。
ここに、罪の強い誘惑がや って来るとします。わたしたちは、
それにいつ も打ち負かされてきたので、それに対して無力であることを知っており、 自分たちの不幸は誘惑の強さにあるとします。 しかし今、わた したちの目は、あわれみを受け、また恵みにあずかって時機を得た助けを受けるためにはばかることなく恵みの御座に近づくようにと言われた主を見上げます。そこで、神に助けを祈 り求め始めます。そして、聖書の中で天と地の創造者として啓示されている神に祈ります。わたしたちの弱さを嘆く言葉ではなく、神の勢いある力を知っている喜びの言葉で祈り始めるのです。それがきちんとなされた後で、わたしたちは自分の困難と弱さを思い切って述べることができます。もしわたしたちが最初に自分の弱さと失望的な状態を述べるなら、神より自分を先にしているのです。そのような場合、サタンは困難を拡大して見せ、わたしたちの回りに闇を投げかけるので、わたしたちは自分の弱さの他には何も見えなくなってしまい
ます。熱烈にもだえ苦しみながら、叫びと嘆願をするかもしれませんが、それらはむなしいのです。なぜならその祈りは、神がおられることと、神はご自分が啓示されたとおりのかたであることを信じるという重要な要素を欠いているからです。しかしわたしたちが、神の力を認識して祈りを始める時は、その後で安全にわたしたちの弱さを述べることができます。なぜならその時には、わたしたちの弱さを神の傍らにただ置くだけだからで、神の力とわたしたちの弱さの相異は勇気を生み出すことになるからです。
それから、祈るにつれ、神の約束が聖霊によってわたしたちの心にもたらされます。その問題にぴったりあてはまるような特別な約束は考えられないかもしれません
。しかし、「『
キリスト・イエスは、罪人を救う
ためにこの世にきて下さった』」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである
」(I テモテ1:15)。そしてまた、「キリストは
、わたしたちの父なる神の御旨に従い、
わたしたち
を今の悪の世から救い出そうとして、ご自身をわたしたちの罪のためにささげら
れたのである」(ガラテヤ 1:4)ということを思い起こすことができます。そして、それにあ
らゆる約束が伴うことをわたしたちは知るでしょう。なぜなら、「ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか
」(ローマ 8:32) とあるからです。
それからわたしたちは、神は無いものをあたかもそれらが有ったかのように語ることがおできになることを思い出 します。つまり、神が約束されるなら、それで 十分であり、すでに
成就したのと同じなのです。 したがって、わたしたちは、悪から解放されることは神の御旨にかなっている (ガラテヤ 1:4)
ことを知り、勝利はすでにわたしたちのものだとして、神に、「尊く大いなる約束 |を感謝し始めます。わたしたちの信仰がこれらの約束をつかみ、現実のものとする時、その驚くべき愛のゆえに神を賛美せずにはいられません。そうしている間に、わたしたちの心は悪から全く離れ、勝利はわたしたちのものとなります。主は、敵に対して伏兵を設けられます。わたしたちの賛美は、サタンにわたしたちは補強されていることを示すことになります。するとサタンは、わたしたちに与えられている助けの力を味わったことがあるので、 自分には何もできないと知ります。ですから彼はわたしたちから去っていくのです。 これは、
使徒の次のような勧めに力があることの例証です。
「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい」(ピ リピ4:6)。
キリストそしてキリストの義 第11章 信仰の勝利より
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