私たちの教会では説教が非常に求められています。教会員は聖霊に頼るより、講壇からの雄弁に頼っています。彼らに与えられた霊の賜物は、求められず用いられないため、だんだん衰え、弱くなってきています。もし牧師が新しい伝道地に行き、教会員があとの責任を負わなければならなくなると、彼らの能力は用いることによって増していくはずです。神は牧師と信徒に、霊的弱さについて次のように厳しく責めておられます。「わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい」(黙示録 3:15~18)。神は霊的リバイバルと霊的改革を求めておられます。これが起こらなければ、なまぬるい人は、主にますます嫌われるようになり、ついに主は彼らを神の子とはお認めにならなくなります。リバイバルと改革が、聖霊の働きのもとに起こらねばなりません。リバイバルと改革は2つの違ったことがらです。リバイバルは霊的生命が新たにされ、精神と心の力が活性化され、霊的死より復活することです。改革は再組織、立て直しを意味し、考えや意見、習慣や行動に起こる変化です。改革は聖霊のリバイバルと結びつかなければ、よい義の実を結ぶことはできません。リバイバルと改革にはそれぞれ与えられた分野があります。そして、その働きをするために2つのものは、溶け合わねばなりません。『レビュー・アンド・ヘラルド』1902年2月25日
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