私たちは信仰と行いによって救われるのか、
それとも、行う信仰によって救われるのか
「信仰による義については、こう述べられています。…『御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。』これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです」(ローマ10:6〜9)。
この聖句の最後の節に書かれていることは、文字通り真実として受け入れてもよいのでしょうか。受けいれるのは危険ではないのでしょうか。また、救いには信仰以上のものが必要なのではないでしょうか。これらの質問のうち、最初の質問に対しては、私たちは「はい」と答えることでしょう。そして、残りの二つの質問には、「いいえ」と答えることでしょう。これほど平易な言葉は、文字通り真実であるという以外にはあり得ません。そして、震える罪人が頼ることのできる言葉なのです。
ピリピの看守の場合を考えてみましょう。パウロとシラスは、無慈悲に鞭で打たれた後、この看守の管理下に置かれました。鞭打ちによって背中が裂け、足枷をはめられているにもかかわらず、パウロとシラスは真夜中に神に祈り、賛美の歌を歌っていました。突然、大地震が起こり、牢獄の扉がすべて開きました。その時、看守が震え上がったのは、囚人たちが逃げ出せばローマの裁きを受けなければならないという恐怖心からだけではありませんでした。彼はその地震の衝撃のうちに、大いなる裁きの予兆を感じたのでした。自分の罪の重さに震えながら、看守はパウロとシラスの前にひれ伏し、「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか」と尋ねました。
その答えに注目してください。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」(使徒16:30,31)これは、先に引用した、パウロがローマの信徒へ書き記した言葉と全く同じです。あるとき、ユダヤ人たちが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」とイエスに尋ねました。これは、まさに私たちが知りたいと望んでいることではないでしょうか。イエスは次のように言われました。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業(行い)である。」(ヨハネ6:28、29)
この言葉を目立つように金の文字で書いて、もがいているすべてのクリスチャンの目の前に置いておけないものでしょうか。一見、逆説に見えることの謎がこれで解けます。つまり、行いは必要です。それでいて、信仰はすべてに十分なのです。なぜなら、行いを働くのは信仰だからです。 [1]
注
ワゴナー、『バイブル・エコー』1890年8月1日号
0 件のコメント:
コメントを投稿