2023年9月17日日曜日

第128章 どうして「呪われた」教会員がいるのか 24/7ユナイテッドプレイヤー 日毎の福音から

しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。(ヤコブの手紙125節)

「律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています」(ガラ310)。それはなぜでしょうか。律法が呪いだからでしょうか。決してそうではありません。「律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです」(ローマ7:12)。「律法の呪い」とは、法に背くことです。神の律法へ背くことは、それ自体が呪いです。なぜなら、「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだ」からです(ローマ5:12)。罪は死を内包しています。罪がなければ、死はあり得ません。なぜなら、「死のとげは罪である」からです(1コリント15:56)。

では、なぜ律法の行いに頼る者は皆、呪いの下にあるのでしょうか。なぜなら、「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」からです。

彼らは、律法を行うから呪われるのではなく、律法を行わないから呪われるのです。つまり、律法の行いに頼ることが、律法を行うことと同じというわけではないのです。いいえ!「なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです」(ローマ8:7)。すべての人は呪いの下にあります。そして、自分の行いによってそこから抜け出そうと考える人は、そこにとどまることになるのです。「呪い」とは、律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らないことなのですから、「祝福」とは、律法に完全に従うことです。

「見よ、わたしは今日、あなたたちの前に祝福と呪いを置く。あなたたちは、今日、わたしが命じるあなたたちの神、主の戒めに聞き従うならば祝福を、もし、あなたたちの神、主の戒めに聞き従わず、今日、わたしが命じる道をそれて、あなたたちとは無縁であった他の神々に従うならば、呪いを受ける」(申命記11:26-28)。これは、私たち一人ひとりに向けられた神の生きた御言葉です。「律法は怒りを招くもの」です(ローマ415)。しかし、神の怒りは不従順な者たちに下るのです。(エペソ5:6)。もし私たちが真に信じるなら、断罪されることはありません。なぜなら、信仰によって私たちは律法、すなわち神の命と調和することができるからです。[1]

1.      『うれしい知らせ』5657ページ

「われわれはみな汚れた人のようになり、われわれの正しい行いは、ことごとく汚れた衣のようである。」

え?われわれの悪い行いではなく、正しい行いが汚れた衣?と驚きました。人生をかけ、時間をかけ、たくさんの犠牲を払い、中には家族を捨て、仕事を捨て、財産を捨て、中には青春や、人生の夢を捨て、それが全部、汚れた行いなの?と。

「律法の実行に頼る」つまり神さまを愛しているわけでもなく、隣人を愛しているわけでもない、自分のためなので、利己心、すなわち律法を守ってない、だから呪われてしまいます

しかし、信仰による義は違います。

「堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。」

主にあっては、すなわち、信仰による義、素晴らしい福音、神さまは死にゆく、滅びゆく人々を永遠の命に救うという最高の素晴らしい働きをお与えくださっておられます。

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