あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。(フィリピの信徒への手紙2章13節)
人は「良い行い」と呼ばれることに非常にこだわることがあります。そうです。良い人となるために、正しい人となるために、そして、神を動かすために、骨の髄まで働くのです。
しかし、その働きをしているのは誰でしょうか。義となるために、そして、この世で恵みが増し加えられ、天国で栄光が増し加えられる功徳の宝を持つために、自分で働いているのです。心は神にゆだねられているでしょうか。愛情は神にしっかりと向けられているでしょうか。神にすべてを委ねているでしょうか。いいえそうではありません。ですから、すべてにおいて自分自身であることに変わりはないのです。
では、常に良い行いであるためには、誰がその行いをすれば良いのでしょうか。もう一度読んでみましょう。キリストが私たちの心に宿っておられるなら、キリストが私たちの内に働いて、「御心のままに望ませ、行わせて」くださいます。キリストが行われたように、私たちも行い、同じ精神を示すでしょう。こうして、キリストを愛し、キリストのうちにとどまることによって、私たちは「…あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達する」のです(エペソ4:15)。
それこそが主が望んでおられることであり、キリストの思いです。キリストから切り離して、また、キリストが個人的に宿ってくださることなしに、キリストの思いを持つことはできません。しかし、イエス・キリストの個人的なご臨在は、まさに今、主が後の雨の注ぎの中で聖霊によって私たちに与えようとしておられることなのです。[1]
「…恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」(フィリ.2:12,13)
注
1.
世界総会報、298ページ
1888年のメッセージの決定的にすごい事は、いつかそうなる、やがてそうなる、ではなく、まさに今、です。パベルゴイヤ牧師の祈りの力にもありましたし、証の書にもはっきり書いています。
「いやされたと感じるまで待ってはなりません。そして「信じます。いやされています。私がそう感じるからではなく、神がこれを約束されたからです」と言いましょう。
イエスは「なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう」(マルコ11:24)と言われましたが、このみ約束には条件が1つあります。それは神のみ旨に従って祈るということです。けれども、私たちの罪を清め、神の子らとして清い生活を送らせようとなさるのは神のみこころです。ですから、これらの祝福を願い求め、それを受けたと信じて神に感謝してもよいのです。イエスのもとにきて清められ、恥じるところなくおきての前に立つことができるのは私たちの特権です。聖書にも「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない……これは……肉によらず霊によって歩く」(ローマ8:1、4)とあります。」キリストへの道 信仰
英語では「信じます。いやされています。私がそう感じるからではなく、神がこれを約束されたからです」と言いましょう、ではなく、命令形のSay 言いなさい 言え、になっています。「思いなさい」だと自我が邪魔する場合もあるでしょう。しかし、Say 言いなさい、と書いてあります。これならだれでもできます。青銅の蛇を見上げなさい、と命令されたら見上げる、言いなさい、言え、と命令されたら言う、ここはとても大切だとわたしは思っています。
「信じます。いやされています。私がそう感じるからではなく、神がこれを約束されたからです」
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