第159章
自分が不信心であることを知ることは、なぜ良い知らせなのか
このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。(ローマの信徒への手紙5章1,2節)
「しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます」(ローマ4:5)。
これが、誰もが義人になることのできる唯一の方法です。すなわち、まず、自分が不信心な者であることを認め、次に、神が不信心な者を義と認めてくださる、つまり義であるとみなしてくださると信じることです。そうすれば、その人はまさに神の義をもって義とされるのです。
この世の人はすべて不信心です。「不信心」とは、「神に似ていない者」という意味です。そして、聖書には、「人は皆、罪を犯して神の栄光(善の賜物、ご品性)を受けられなくなって」いる(ローマ3:23)と書かれています。ですから、何においても自分が神に似た者であるには足りないということを認める人は誰でも、自分が不信心な者であることを告白しているのです。
しかし、真実を言うと、すべての人が、すべてにおいて、神に似た者になるには足りないのです。なぜなら、「すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、ひとりもいない」からです(ローマ3:9-18)。
つまり、不信心でない者は一人もいません。そして、神が不信心な者を義とされます。ですから、これが神の側からの義認、すなわち、地上のすべての魂に完全に、価なしに与えられる、確かなものである義、救いなのです。
そして、それを自分の中で確かなものにするために必要なことは、神がそれぞれの不信心な者を個人的に義と認めてくださると信じることだけなのです。
このように、多くの人には奇妙に聞こえるかもしれませんが、義とされるための唯一の条件であり、唯一の準備は、自分が不信心であることを認めることなのです。その条件を満たし、準備をした上で、完全で、自由で、確実な義認を得るために必要なことは、ただ、神が不信心な者を義としてくださることを信じることなのです。[1]
注
1. 「信仰の教訓」31、32ページ
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