わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。( ローマの信徒への手紙 1章16節、17節)
ローマの信徒への手紙第1章は、神のいない人間の状態、そしてどのようにそのような状態になっていくのかを要約しています。この状態の原因は一言で言えば、不信仰です。
不信仰と結びついているのは虚栄心です。彼らは神を失ってしまいました。「なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです」(21節)。彼らはすべてを自分自身に帰し、自己が向上するにつれて神への信仰は衰え、ついには偶像礼拝の暗闇に陥ってしまいました。
プラトン、セネカ、マルクス・アウレレウスは道徳科学と呼ばれるものを教え、孔子は道徳の戒律を教えました。しかし、彼らに欠けていたのは、自分たちが正しいと教えたことをどのように実行すればよいかを教えることでした。道徳科学や徳を説いたこれらの人々でさえ、自らが非難した行為を行っており、道徳的義務として定めたことを実行するにはほど遠いものでした。
そのような教師たちは、何をすべきかを教えてはくれますが、それを実行する力を与えてはくれません。一方、イエス・キリストの宗教は、何が正しいかを教えるだけでなく、善いことを実行する力を与えてくれるのです。ですから、教えの中にキリストが織り込まれていないなら、道徳を教えようとする努力そのものが、不道徳である古い異教の道徳科学に過ぎないのです。イエス・キリストから離れた道徳科学は不道徳であり、罪なのです。[1]
キリストこそ、「『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(使徒4:11,12)。
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