2025年1月19日日曜日

公衆の場でする祈りは長くしてはならない

キリストは弟子たちに、ただ求めることだけを祈って、祈りを短くするようにすべきだという考えを印象づけられた。キリストは何をどれくらい祈るかについて教えられたが、それは物質的・霊的な祝福に対する彼らの願いと、それらに対する感謝を表現することであった。この祈りの見本はなんと包括的であろう。それは、あらゆる実際的な必要を言い尽くしている。普通の祈りであればどんな場合でも1、2分で十分である。祈りが特別に神の御霊によって授けられ、御霊によって嘆願がなされるということがある。熱望する魂は神を求めてもだえ苦しみうめくのである。霊はヤコブのしたように格闘し、特別な神の力の表示を見るまでは落ち着かない。これは神が望まれる状態である。

しかし多くの者は、心のこもっていない説教のような祈りをささげる。これらの人々は神にではなく、人に祈っているのである。もしも、彼らが神にむかって祈り、自分のしている事が本当にわかったら、自分の大胆不敵さに驚き恐れるであろう。なぜならば彼らは、宇宙の創造主が世界に起こっている事柄に関し、何か特別な知識を必要としておられるかのように、祈りの形式で、神に向かって講義をしているからである。こういう祈りは皆、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢 にょうはちと同じであって、天では何の価値も認められないのである。それらに耳を傾けなければならない人間と同様に、神のみ使いたちもそれらに聞き飽きている。

 人々は、イエスが祈っておられるのをしばしば見た。彼はご自身の願いをみ父にお告げになるために、人のいない森や山に行かれた。1日の仕事が終わって、疲れた者たちが休息を求めている時、イエスは祈りに時間を費やされた。われわれは祈る気持ちをくじこうとしている訳ではない。なぜなら、祈ることとそのために目をさましているということが、あまりに少な過ぎるからである。そしてまた、御霊と知性をもって祈るということは更に少ないのである。熱と力のある祈りは、いつでも適切で決して人を疲れさせない。そういう祈りは、祈りを愛する気持ちのあるすべての者に関心を持たせ、彼らを元気づける。

 密室の祈りがおろそかにされている。そして、そのために、多くの者は神を礼拝するために集まった時、あんなに長い、あきあきする信仰的でない祈りをささげる。彼らは、その祈りの中で、1週間の怠った義務をふり返り、同じ事を何回も祈るが、それは自分の怠慢を補って、自分を苦しめている良心のかしゃくを静めようと思っているからである。彼らは祈ることによって神から好意を受けようと希望する。しかしこのような祈りは、しばしば、他の人たちの精神を、彼ら自身の低い霊的暗黒の水準に引き下げてしまう。もしクリスチャンが、目をさまして祈ることに関するキリストの教えを、切実に感じ取るならば、神を礼拝することにおいてもっと聡明になるであろう。 (2T・581、582ページ)

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