2015年5月4日月曜日

祈りは、義務を行うことの代わりにはならない。

 神のお約束が実現されるためには、条件がある。そして、祈りは、義務を行うことの代わりにはならない。キリストは言われる。「もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである。」「わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう。」(ヨハネ14-15、21)祈りのときに、こうした条件に従わないでいて、神の約束が果たされることを求める者は、神を侮辱する者である。彼らは、キリストの名を唱えていれば、神の約束が実現するものと思っているが、キリストを信じていることと、キリストを愛していることをあらわす行為を示さないのである。
 父なる神に受けいれられる条件にかなっていない人がたくさんいる。わたしたちの証書にはなんと書いてあるかをよく調べてみなければならない。わたしたちが神に近づくことができるのはこの約束のことばである。もし、わたしたちが従わないでいれば、それは、支払いの条件にかなわないでいながら、小切手の現金引き替えを、主に求めることである。わたしたちは、これがあなたの約束ですから、これを、実現してくださいと祈る。しかし、それでは神ご自身のみ名の汚れになるのである。
 「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えらえるであろう」というのが約束である。(ヨハネ15ー7)「もし、わたしたちが彼の戒めを守るならば、それによって彼を知っていることを悟るのである。『彼を知っている』と言いながら、その戒めを守らない者は、偽り者であって、真理はその人のうちにない。しかし、彼の御言を守る者があれば、その人のうちに、神の愛が真に全うされるのである。」とヨハネも言っている。(ヨハネ第一・2-3~5)
 キリストの弟子たちへの最後の戒めの一つは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」ということである。わたしたちは、この戒めに従っているであろうか。それとも、世知にたけたクリスチャンらしくない性質をあらわしているであろうか。もし何かの点で、他人の心を痛め、傷つけたならば、その過失を告白して、和解を求めなければならない。これは、信仰をもって神の祝福を求めつつ神のみ前に出るためにしなければならない準備である。
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                ~キリストの実物教訓 求めよ、そうすれば、与えられるであろう~

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