2018年4月25日水曜日

なぜならば、神がそこにおられるからである

 公的と私的の礼拝の両方において、われわれが神に嘆願するときには、神のみ前にひざまずくのが、われわれの特権である。われわれの模範であられるイエスは「ひざまずいて、祈って言われた」(ルカ22-41)。弟子たちについても、彼らは「ひざまずいて祈って」と記されている(使徒行伝9-40)。パウロは、われわれの主イエス・キリストの父なる神に「ひざをかがめ」ると言った。(エペソ3-14)。エズラはイスラエルの罪を神に告白したときに、ひざまずいた(エズラ記9-5参照)。ダニエルは「一日に三度ずつ、ひざをかがめて神の前に祈り、かつ感謝した」(ダニエル書6-10)。
 神に真の崇敬の念を抱くということは、神の無限の偉大さと神の臨在を自覚することによるのである。すべての者は見えない神に対して、こうした思いを心から抱かなければならない。祈りの時間と場所は神聖である。なぜならば、神がそこにおられるからである。そして、崇敬の念が態度とふるまいにあらわされるときに、その感じはさらに深まるのである。「その名は聖にして、おそれおおい」と詩編記者は言っている(詩編111-9)。そのみ名を語るとき、天使たちは彼らの顔をおおうのである。もしそうであるならば、堕落して罪深いわれわれは、どんな崇敬の念をもって、それを、われわれの口にしなければならないことであろう。              国と指導者 エルサレム神殿の建設

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