2021年2月6日土曜日

われわれが持っているものをどう用いるかによって決まるのである。

「エリヤの時代に、3年6か月にわたって天が閉じ、イスラエル全土に大ききんがあった際、そこには多くのやもめがいたのに、エリヤはそのうちのだれにもつかわされないで、ただシドンのサレプタにいるひとりのやもめにだけつかわされた。また預言者エリシャの時代に、イスラエルには多くのハンセン病人がいたのに、そのうちのひとりもきよめられないで、ただシリヤのナアマンだけがきよめられた』」(ルカ4:23~27)。 預言者たちの生涯の出来事をこのようにのべることによって、イエスは、聴衆の疑問に応じられた。神が特別な働きのためにお選びになったしもべたちは、心のかたくなな、不信な民のために働くことをゆるされなかった。しかし感ずる心と信ずる信仰とを持った者たちは、預言者たちを通しての神の力の証拠によって特別に恵まれた。エリヤの時代に、イスラエルは神から離れた。彼らは、罪から離れず主の使者たちを通して与えられるみたまの警告をこばんだ。こうして彼らは、神の祝福が与えられる通路を自らたちきった。主は、イスラエルの家々をみすごして、選民 に属していない1人の婦人のいる異教の地をご自分のしもべの避難所とされた。この女は、受けた光に従い、神がご自分の預言者を通して送られたもっと大きな光に心を開いていたために恵まれた。 エリシャの時代に、イスラエルのハンセン病人たちがみすごされたのも同じ理由からであった。しかし異教国の貴族ナアマンは、正義の信念に忠実であって、助けが非常に必要であることを感じていた。彼は、神の恩恵の賜物を受ける状態にあった。彼は、その病からきよめられたばかりでなく、真の神を知る特権に恵まれた。 神の前におけるわれわれの立場は、われわれが受けた光の量によってきまるのではなくて、われわれが持っているものをどう用いるかによって決まるのである。だからたとえ異教徒であっても、認めることができるかぎり正しいことをえらぶ時、彼らは、大きな光を与えられて、神に仕えると公言しながらその光を軽視し、その日常生活が告白と矛盾しているような人たちよりも、好ましい状態にあるのである。各時代の希望 第24章 「この人は大工の子ではないか」

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