2021年5月29日土曜日

そんなものよりキリ ストを持った方が良い』と言うならば 働きは終了し、生ける神の印がその人 の品性のうえに押されるのです

  「主は我々の承諾なしに我々の罪を 取り去る事はなさいません。私はいつ でも主を選ぶか、自分の罪を持ち続 けるかの選択をしなければなりませ ん。…これから後神が罪だと示された ら、それが何であろうと捨てる事をため らうべきでしょうか。…主にこう言いま しょう。『主よ、私は今選びます。私はこ の罪とあなたとを引き換えます。わたし はあなたを選びます…。』一体どこの誰 が自分の罪を示されて失望する必要 があるのでしょうか。 さて兄弟がたの何人かはこの選びを さっそくなさっているかもしれません。 ここに来た時は何も感じていなかっ た、今まで気づかなかった何かを聖霊 が彼らに示されました。…するとそのよ うに示された事を感謝して、罪を捨て るかわりに…彼らは失望するのです。『 一体どうしよう。私の罪はこんなに多い のか』と…。 もし以前には考えてもみなかった罪を 示されたとすれば、それは主がこころ の深みを清めようとしておられる、とい うまでの事で、いつかそれはついに心 の底にまで達するのです。そして御自 分の御旨にそわない、不純で汚れたも のの最後の一つを取りだして我々に示 される時、我々が『そんなものよりキリ ストを持った方が良い』と言うならば 働きは終了し、生ける神の印がその人 の品性のうえに押されるのです(会衆: アーメン!)。 完全にイエス・キリストによって満たさ れているのと…いくつかの罪を知らさ れずに保ち続ける事と、どちらを望まれ ますか?もし我々が罪を持ち続けるな ら、どうして神の完全な品性である神 の印が我々に押されましょうか。それで 我々が夢にも思わなかったような深い 所まで主は掘り下げられるのです。我 々自身は自分の心さえ知らないのです から、…主にその働きを続けていただ きましょう。…もし主が我々に知らせる 事もしないで我々の罪を取り去るとし たら、それには何の意味があるでしょう か。我々は機械にすぎなくなってしまい ます。…我々は理知的な、神の器なの です。…理性を備えた道具なのです。 我々は自分の選びによって神のご用 に用いられるのです」(ATJ GCB 1893, p404,405)。

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