マリヤは、救い主の死体に惜しますふりかけようと思っていたかおり高い献げ物を、主の生きたお体にそそいだのである。葬りの時だったら、そのかおりは墓の中にたちこめるだけであるが、いまそれは、彼女の信仰と愛についての確証とともに主の心を喜ばせた。アリマタヤのヨセフとニコデモは、愛の献げ物を、イエスが生きておられる時にささげなかった。にがい涙とともに、彼らは、主の冷たい、意識のなくなったお体のために高価な香料を持参した。香料を墓に持って行った婦人たちは、主がよみがえられたので、自分たちの用事がむだであったことを知った。しかしマリヤは、救い主が彼女の信心を認めてくださることができる間に、主に愛をそそぐことによって、葬りのために主に油をそそいだのであった。こうして主は、その大いなる試練という暗黒の中を進んで行かれた時に、この行為の思い出、すなわちあがなわれた者が永遠に主に対してささげる愛の保証をたずさえて行かれたのであった。
死人のために高価な献げ物を持参する人が多い。冷たい、無言のなきがらのそばに立つ時に、彼らは惜しみなく愛のことばを語る。見ることも聞くこともできない者に向かって、やさしさ、感謝、愛情のすべてがそそがれる。疲れ果てた心が最も必要としていた時に耳にきくことができ、心に感ずることができた時にそうしたことばが語られていたら、そのかおりはどれほどとうとかったことだろう。
マリヤは自分の愛の行為の意義を十分に知らなかった。彼女は自分を非難する人たちに答えることができなかった。彼女はイエスに油をそそぐのになぜそんな機会をえらんだのか説明できなかった。聖霊 が彼女のために計画され、彼女はそのささやきに従ったのである。霊感はことさら理由を説明なさらない。目に見えない存在、それが心と魂に語り、心にはたらきかけて行動させる。それだけで正当な理由である。
キリストは、マリヤに彼女の行為の意味をお告げになり、そのことによって、ご自分が受けられたよりも多くのものをマリヤにお与えになった。「この女がわたしのからだにこの香油を注いだのは、わたしの葬りの用意をするためである」とキリストは言われた(マタイ26:12)。香油のつぼが割れて、そのかおりが家中に満ちたように、キリストは死なれて、そのお体がこわれるのであった。しかし主は墓からよみがえって、その生命のかおりが地を満たすのであった。キリストは、「あなたがたを愛して下さって、わたしたちのために、ご自身を、神へのかんばしいかおりのささげ物、また、いけにえとしてささげられたのである」(エペソ5:2)。「よく聞きなさい。全世界のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」(マタイ26:13)。将来をごらんになって、救い主は、福音について確信をもって語られた。福音は全世界に宣べ伝えられるのであった。そして、福音がひろがるかぎりどこまでも、マリヤの献げ物はそのかおりを放ち、人々の心は彼女の自然に発した行為によって恵まれるのであった。国々は起こり、そして倒れるであろう。君主たちと征服者たちの名前は忘れられるであろう。しかしこの婦人の行為は、聖史のページに永久に残るであろう。世にあるかぎり、あの割られた香油のつぼは、堕落した人類に対する神の豊かな愛の物語を告げるのである。 各時代の希望 シモンの家での食事
0 件のコメント:
コメントを投稿