マリヤの行為は、キリストに対する弟子たちの愛の表現がキリストによろこばれるということを彼らに示すのに、ちょうど必要な教訓であった。キリストは彼らにとって全部であったが、彼らはまもなく主の存在が取り去られ、主の大いなる愛に対する感謝のしるしを示すことができなくなることに気がつかなかった。天の宮から離れ、人間として一生を送っておられるキリストの孤独は、弟子たちから正しく理解もされなければ、評価もされなかった。キリストは、弟子たちから当然受けられるべきものを彼らがささげなかったために、しばしば悲しまれた。もし弟子たちが、キリストにつきそっている天使たちの影響を受けていたら、彼らもまた心のうちにある霊的な愛情を十分にあらわすだけの価値のあるささげものはないと思うだろうということを、キリストは知っておられた。
彼らは、イエスのおそばにいた時に心のうちにある愛と感謝の表現としてイエスのためになし得た多くのことについて、その真の意義をのちになって知った。イエスがもはや彼らと一緒におられなくなって、自分たちが実際羊飼のいない羊のようであることを感じた時、彼らは、イエスの心をよろこはせるような心づくしを示すことができたのだったということがわかり始めた。彼らはもうマリヤを非難しないで、自分自身を責めた。ああ、キリストにささげるよりも貧しい人たちに施した方がよいなどと非難したことばを取消すことができたら。彼らは、主のくだかれた体を十字架からおろしながら、激しく心を責められた。
今日のわれわれの世界においても明らかにこのことが不足している。しかしキリストが自分にとってどういうお方であるかを全部理解している人はほとんどいない。もしそれが理解されているなら、マリヤの大きな愛があらわされ、惜しむことなく油がそそがれるであろう。高価な香料もむだ使いとはいわれないだろう。どんなものも、キリストにささげるには高価すぎるとか、キリストのために耐え忍ぶには克己と犠牲が大きすぎるということはないであろう。
「なんのためにこんなむだ使をするのか」と憤慨して言われたことばは、最高の犠牲、すなわち失われた世のためにあがないの供え物としてご自身を献げられることを、ありありとキリストに思い出きせた。主は、もうこれ以上おできにならないと言えるほど、人類 家族に対して恵み深いのであった。キリストという賜物を通して、神は全天をお与えになった。人間的な見地からすれば、このような犠牲は無意味な浪費であった。人間の考えでは、救いの計画全体は憐れみと資産の浪費である。どちらを向いても克己と全心全霊の犠牲が見られる。人類家族が、キリストのうちにあらわされている限りない愛によって高められ豊かにされることをこばむのを見て、天使たちが驚くのも無理はない。天使たちが、これは何という大きなむだだろうと叫ぶのももっともである。
しかし失われた世界のあがないは、欠けるところがなく、豊富で、完全なものとなるのであった。キリストの献げ物は非常に豊かで、神が造られたすべての魂にとどくのであった。この大いなる賜物であられるイエスを受け入れたいと望む人の数を越えないように制限することはできなかった。すべての人が救われるとはかぎらないが、あがないの計画は、豊富に用意されていることが全部達成されないからといってむだになるのではない。有りあまるほど十分なければならないのである。
各時代の希望 シモンの家での食事
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