キリストの時代に、民の宗教指導者たちは霊的宝に富んでいると自認していた。「神よ、わたしはほかの人たちのよう……でないことを感謝します」というパリサイ人の祈りは、その階級の気持ち、またさらに、国全体の気持ちを非常によく表現していた(ルカ18:11)。しかし、イエスをとりまく群衆の中には、自分の霊的な貧しさを認めた人々も何人かあった。魚が奇跡的にとれて、キリストの神聖な力があらわれた時、ペテロは救い主の足下にひれ伏し、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」と叫んだ(ルカ5:8)。そのように、山上に集まった群衆の中にも、キリストの純潔を目の前にして自分が、「みじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者」であることを感じた魂があった(黙示録3:17)。そして彼らは、「すべての人を救う神の恵み」を切望したのである。これらの魂の中に、キリストのあいさつの言葉は希望をよびおこした。彼らは、自分たちの生涯が神の祝福を受けていることを知った。 祝福の山 祝福
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