天の聖所におられる裁判官は、正しいさばきを行われる。彼は、ご自分のみ座を取りかこむ天使たちよりも、罪の世の誘惑にさらされている人類との交わりをお喜びになる。
今全宇宙の関心がこの小さな地球に向けられている。それは、キリストが地球の住民の魂のために、無限の価を払われたからである。世のあがない主は、天と地とを結びつけるのに天使たちをお用いになる。主にあがなわれた者が、この地上にいるからである。昔、天使たちがアブラハムやモーセと共に歩いて語ったように、今もなお、彼らは、地上を訪れる。大都会の忙しい活動の中に、街頭や市場に群がっている群集の中に、また、人生は金をもうけ、遊戯にふけり、楽しむことだと考えて、永遠の世界のことは、考えようともしない人々の中にさえ、神はなお、守護者や聖天使たちをお送りになる。このような目には見えない使者たちが、人々のすべての言葉と行いを見守っている。どのような事業あるいは、快楽のつどいの中にも、またはどのような礼拝のつどいの中にも、そこには目に見える聴衆のほかに、別の聴衆がある。時には天使たちが見えない世界をおおっている幕を開いて見せる。そして、わたしたちの心を、あわただしい生活から転じて、すべての言行を見守っている目に見えない証人たちのことを考えさせようとしている。
わたしたちは、天使の来訪が、なんの目的のためであるかを、よく知らなければならない。わたしたちが、どんな仕事をしていても、天使たちの協力と保護が与えられていることを思わなければならない。目にこそ見えないが、光と力の軍勢が、神の約束を信じて、これを自分のものとする柔和で心のへりくだった者の保護にあたる。ケルビムとセラピム、力にすぐれた天使たち、万の幾万倍、千の幾千倍もの天使たちが、キリストの右に立っている。これは、「すべて仕える霊であって、救を受け継ぐべき人々に奉仕するため、つかわされた」のである(ヘブル1:14)。
これらの天の使いたちによって、人の子らの言葉と行いがもれなく記録されている。神の民に対する残酷と不正行為、悪人の権力によって、神の民に加えられた苦痛もみな天に記録されるのである。
「まして神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか。あなたがたに言っておくが、神はすみやかにさばいてくださるであろう。」
「だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。その確信には大きな報いが伴っているのである。神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である。『もうしばらくすれば、きたるべきかたがお見えになる。
遅くなることはない』」(ヘブル10:35~37)。「見よ、農夫は、地の尊い実りを、前の雨と後の雨とがあるまで、耐え忍んで待っている。あなたがたも、主の来臨が近づいているから、耐え忍びなさい。心を強くしていなさい」(ヤコブ5:7、8)。
神の忍耐は驚くばかりである。罪人に恵み深い訴えかなされている間に、神の義もまた長く待っている。しかし、「義と正とはそのみくらの基である」(詩篇97:2)。「主は怒ることおそく」とあるが、「力強き者、主は罰すべき者を決してゆるされない者、主の道はつむじ風と大風の中にあり、雲はその足のちりである」(ナホム1:3)。
世の人々は、大胆に神の律法を犯すようになった。神が長く忍んておられるために、人々は、神の権威を踏みにじった。彼らは、互いに、競って、神の嗣業である人々を圧迫し残酷に扱った。「神はどうして知り得ようか、いと高き者に知識があろうか」と彼らは言うのである(詩篇73:11)。けれども、彼らには越えられない一線が画されている。定められた限界に彼らが達する時が近づいてきた。今すでに、彼らは、神の忍耐の限界を越えようとしている。それは、神の恵みと憐れみの限界である。主は、み手を下してご自分の名誉を擁護し、神の民を救い出し、不義が増し加わるのをおさえられる。
ノアの時代の人々は神の律法を無視し創造主を記念するものは、地から全く消え去ったかと思われた。人々の罪があまりにはなはだしくなったために、主は洪水によって、罪深い地の住民たちを一掃なさった。
いつの時代でも、主はご自分の働かれる方法を人々にお知らせになった。危機が迫ってくると、主はいつもご自分をあらわされ、サタンの計画が実行されるのをとどめるために手を下された。神は、国家であろうと、家族であろうと、あるいは個人の場合であろうと、主の介入がいっそう明らかにわかるように、事態が危機におちいるのをお許しになる。こうして律法を擁護し、正しいさばきを行われるイスラエルの神の存在が明らかにされたのである。
現在は、罪悪が世にあふれて、最後の大危機が近いことを告げている。神の律法が全世界的に無視され、神の民がその同胞からの圧迫と迫害を受けるようになるその時に、主が介入なさるのである。
「さあ、わが民よ、あなたのへやにはいり、あなたのうしろの戸を閉じて、憤りの過ぎ去るまで、しばらく隠れよ。見よ、主はそのおられる所を出て、地に住む者の不義を罰せられる。地はその上に流された血をあらわして、殺された者を、もはやおおうことがない」と主がわれる時が近づいている(イザヤ26:20、21)。今、クリスチャンであると言いながら、貧者からだまし取ったり圧迫したり、やもめや孤児から奪ったりする人がある。神の民の良心を自分たちの思いのままにできないからといって、悪魔のような憎しみをいだく人々がいる。しかし、神は、こうしたことをすべておさばきになる。「あわれみを行わなかった者に対しては、仮借のないさばきが下される」(ヤコブ2:13)。やがて、彼らは、全地の裁判官の前に立って、神の嗣業である民の肉体と魂とを苦しめたことについて申し開きをしなければならない。彼らは、今、神の働きをしている人々を偽って訴え、あざけることであろう。神を信じる人々を牢獄に入れ、鎖につなぎ、流刑や死刑に処することであろう。しかし、このよりなすべての苦痛と悲嘆に対して、彼らは神に申し開きをしなければならない。神は彼らの罪に2倍の罰をお与えになる。神は、刑罰を下す天使たちに向かって、背教した教会の象徴であるバビロンについて言っておられる。「彼女の罪は積り積って天に達しており、神はその不義の行いを覚えておられる。彼女がしたとおりに彼女にし返し、そのしわざに応じて2倍に報復をし、彼女が混ぜて入れた杯の中に、その倍の量を、入れてやれ」(黙示録18:5、6)。 キリストの実物教訓 第14章 祈りの能力
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