教役者は、未信者に対し真理なら時と場合を問わず、何でも話すべきものであると思うてはなりません。言うべき時、語るべき事、語らずに置くべき事など、くれぐれも注意して、その宜(ぎ)「に合うようにせねばなりません。これは決して相手を 欺(あざむ)くわけではなく、パウロもこの方針で働きました。コリントの信者に贈った書を見ると、左の如く書いてあります。「我 衆(すべて)の人に向かいて自主(じしゅ)の者なれど、更に多くの人を得んために、自ら己を 衆(すべて)の人の奴隷となせり。ユダヤ人には我ユダヤ人の如くなれり、これユダヤ人を得んためなり。また律法(おきて)の下にある者には、我律法(おきて)の下に在(あ)らざれども、律法の下にある者の如くなれり。これ律法の下にある者を得んためなり。律法なき者には、我律法なき者の如くなれり。これ律法なき者を得んためなり。されど我神に向かいて律法なきに 非(あら)ず、すなわちキリストの律法の下に在あるなり。弱き者には我弱き者の如くなれり。これ弱き者を得んためなり。またすべての人には我そのすべての人の 状(さま)に従えり、これいかにもして、彼ら数人を救わんためなり。」1
パウロはユダヤ人に近づくに当たり、彼らの反感を買うような、拙 劣(せつれつ)な方法に出いでませんでした。彼はいきなりユダヤ人に会い、ナザレのイエスを信ぜよと叫ばず、預言に 基(もと)づきて、キリストをその使命及びその事業を紹介し、神の律法を敬う事の重大なるを示し、1歩1歩と聴く者の注意を引き、またモーセの律法に対しても、相当の敬意を払い、これらのユダヤ人の奉仕はキリストの奉仕の型である事を説明し、進んで主の第一降臨に説き及ぼし、ついにキリストの生涯とその死は、旧約のすべての奉仕を成就したものである事をこんこんと説明しました。
しかし異邦人に接する時は、キリストを先にし律法の問題は後回しとなし、カルバリーの十字架により反射された光は、全ユダヤ制度に、意義と栄光とを与えし事を説きました。
かくパウロは、時と場合により、働きの方法及び使命の伝え方を変えました。パウロは忍耐して働いた結果多大の成功を収めましたが、それでも真理を受け入れぬ者もたくさんありました。今日でも、如何なる方法により真理を紹介しても一向これを信ぜぬ人がありますから、教役者たる者は、最上の方法を講じ、反感や争論の起こらぬよう、大いに注意せねばなりません。しかるにこの点に失敗するもの多く、とにかく己が性癖に従い伝道するため、もし他の方法でやれば導けるはずの人の前に、門戸を閉ざしてしまいます。 福音宣伝者
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