「あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう」と、イエスは仰せになった(マタイ6:3、4)。
こう言われたからといって、イエスは、親切な行為はいつも隠しておくべきだと教えられたのではない。使徒パウロは聖霊に感じて手紙を書き送り、マケドニヤのクリスチャンの物惜しみしない自己犠牲の精神を隠すことをせず、キリストが彼らのうちにあって働いた恵みを述べたのであったが、こうしてほかの人々も、同じ精神に満たされたのである。彼はコリントの教会に書き送ったときにも、「あなたがたの熱心は、多くの人を奮起させた」と述べている(Ⅱコリント9:2)。
キリストご自身のことばが、その意味を明らかにしている一すなわち、慈善行為においては、その目的が人々から賞賛や栄誉を得ることであってはならないという意味である。真の敬虔は、決して誇示しよりとは努めない。賞賛とへつらいの言葉を願い、それにおぼれてしまう者は、ただ名目だけのクリスチヤンである。 祝福の山 奉仕の真実の動機
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