2023年1月24日火曜日

自分に目を向けないことを学ぶ ユナイテッドプレイヤー 日ごとの福音 第12章

 だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」(第二コリント4:16-18)。

「自分を見るたびに、責めるべきものが見つかる」と言う人がいます。確かにそうです!しかし、罪の宣告からの解放は、私たち自身のうちにではなく、キリスト・イエスのうちにあるのです。私たちは、自分自身ではなく、キリストを仰がなければなりません。自分自身を見るときに、責めるべき罪があたらないことなど、今後も決してないでしょう。

サタンが堕落したのは、自分自身を見てしまったからです。そして、彼が堕落に陥れた人々の回復は、イエスを仰ぐことによってのみ可能です。「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」(ヨハネ3:14)蛇が上げられたのは、人々がそれを見るためでした。そして、蛇を見た者は癒されました。キリストについても同様です。

キリストのうちに入ることは、クリスチャン生活の始まりに過ぎず、終わりではありません。それは、キリストについて学ぶ学校への入り口なのです。キリストは、あらゆる悪しき習慣を持つ不信心な人をお取りになって、その罪をすべて赦し、その人がまるで罪を犯したことなどなかったかのように見なしてくださいます。そして、その人が悪しき習慣に打ち勝つことができるように、ご自身の命を与え続けてくださるのです。

学識ある人と交わることによって自分の無知を自覚するように、キリストとの交わりによって、ますます自分の欠点が明らかになります。キリストは、誠実な証人として私たちの欠点をお告げになります。しかし、それは私たちを非難するためではありません。私たちは、主から非難ではなく、同情を受けるのです。この同情こそが、私たちに勇気を与え、克服を可能にしてくれるのです。

主が私たちの品性の欠陥を指摘されるとき、それは、「あなたに必要なものがあります。そして、それは私が持っています」とおっしゃっているのと同じなのです。譴責をこのようにとらえることを学ぶとき、私たちは落胆することなく、譴責を喜ぶことができるのです。[1]

ワゴナー『ワゴナー ローマ人への手紙について』124、126ページ


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