人々からでもなく、人によってでもなく、イエス・キリストと彼を死人の中からよみがえらせた父なる神とによって立てられた使徒パウロ、ならびにわたしと共にいる兄弟たち一同から、ガラテヤ諸教会へ。わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。キリストは、わたしたちの父なる神の御旨に従い、わたしたちを今の悪の世から救い出そうとして、ご自身をわたしたちの罪のためにささげられたのである。栄光が世々限りなく神にあるように、アァメン。
あなたがたがこんなにも早く、あなたがたをキリストの恵みの内へお招きになったかたから離れて、違った福音に落ちていくことが、わたしには不思議でならない。それは福音というべきものではなく、ただ、ある種の人々があなたがたをかき乱し、キリストの福音を曲げようとしているだけのことである。しかし、たといわたしたちであろうと、天からの御使であろうと、わたしたちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その人はのろわるべきである。わたしたちが前に言っておいたように、今わたしは重ねて言う。もしある人が、あなたがたの受けいれた福音に反することを宣べ伝えているなら、その人はのろわるべきである。
今わたしは、人に喜ばれようとしているのか、それとも、神に喜ばれようとしているのか。あるいは、人の歓心を買おうと努めているのか。もし、今もなお人の歓心を買おうとしているとすれば、わたしはキリストの僕ではあるまい。
兄弟たちよ。あなたがたに、はっきり言っておく。わたしが宣べ伝えた福音は人間によるものではない。わたしは、それを人間から受けたのでも教えられたのでもなく、ただイエス・キリストの啓示によったのである。ユダヤ教を信じていたころのわたしの行動については、あなたがたはすでによく聞いている。すなわち、わたしは激しく神の教会を迫害し、また荒しまわっていた。そして、同国人の中でわたしと同年輩の多くの者にまさってユダヤ教に精進し、先祖たちの言伝えに対して、だれよりもはるかに熱心であった。ところが、母の胎内にある時からわたしを聖別し、み恵みをもってわたしをお召しになったかたが、異邦人の間に宣べ伝えさせるために、御子をわたしの内に啓示して下さった時、わたしは直ちに、血肉に相談もせず、また先輩の使徒たちに会うためにエルサレムにも上らず、アラビヤに出て行った。それから再びダマスコに帰った。その後三年たってから、わたしはケパをたずねてエルサレムに上り、彼のもとに十五日間、滞在した。しかし、主の兄弟ヤコブ以外には、ほかのどの使徒にも会わなかった。ここに書いていることは、神のみまえで言うが、決して偽りではない。その後、わたしはシリヤとキリキヤとの地方に行った。しかし、キリストにあるユダヤの諸教会には、顔を知られていなかった。ただ彼らは、「かつて自分たちを迫害した者が、以前には撲滅しようとしていたその信仰を、今は宣べ伝えている」と聞き、わたしのことで、神をほめたたえた。
使徒らしいあいさつ
ローマ書の初めの句を除けば、1~5節の二つ挨拶の形は聖書のどこにも他には見つかりません。 したがってこの世のどこにも見つかません。それは福音全体を包み込んでいます。取り組みやすい聖書の箇所が他になければ、ここに世を救うのに十分なものが含まれていますから、このわずかな筒所を熱心に研究し、まるでこれ以上のものはないかのように尊重するなら、わたしたちは限りなく強められた信仰と希望と愛を持つでしよう。そして聖書の他の場所についての知識がぐんと増加するでょう。この句を読むとき、ガラテヤ人だけに宛てられたものとしないで、その一言一句を、今日神が使徒を通して自分に語っておられる声と考えるようにしようではありませんか。
良き任命
使徒というのはつかわされた者という意味です。パウロは、イエス・キリストと彼を死からよみがえらせた父なる神との使徒でした。彼には十分な裏付けがありました。使命を伝える者は、自分をつかわした方の権威と力に対し持っている確信と同じだけの確信をその使命に持っています。パウロは自分が主につかわされたことを知っていました。また神の力とは死からよみがえらせる力であることを知っていました。「神がおつかわしになったかたは、神の言葉を語る」(ヨハネ 3:34)。 だから、パウロが権威をもって語ったことは、神の命令によったのでした (第1コリント14:37)。 ですから 、わたしたちはこの手紙を読む際、また聖書のどこを読む時でもそうですが、聖書記者個人の特性や偏見について気を使うことはないのです。神は、それぞれに異なった人格であるからこそ異なった働きをするように、色々な人々を記者として選ばれました。ですから、彼らの個性が書いた物の中に留められているのは確かです。 しかし、すべては神の言葉であり、その使命には権威があります。記者の偏見や受けた教育のせいにして、その使命の権威を引き下げる必要のあるものはありません。
ただ使徒ばかりでなく教会の中にいるすべての者は「神の口として語る」ように命じられている、 ということを覚えているのは良いことです (第 1ペテロ 4:11)。キリストにある者はだれでも、イエス ・キリストにより神との和解を受けて新しく造られた者です。そして和解を受けた者はすべて和解の言葉と勤めとを与えられています。だから、神が、ご自分と和解するよう、キリストを通して、人に嘆願されたように、彼らも、神が彼らを通してそうなさるためのキリストの大使なのです (第2コリント5:17-20)。 これは神の使命を語る場合に味わう失望や恐れに対するすばらしい支えです。地上の政府の大使は、王あるいは彼らが代表する支配者の権力に釣り合った権威を持っています。 まして、クリスチャンは王の王、主の主を代表するのです。
使徒は神の使徒である
「神は教会の中で、人々を立てて、第一に使徒、第二に預言者、第三に教師とし、次に力あるわざを行う者、次にいやしの賜物を持つ者……をおかれた」(第 1コリント12:28)。 これらすべては、神ご自身によって教会の中に置かれたということを心にとどめておきましょう。神の他にだれもそれをすることはできません。本物の使徒や預言者を人間が作ることは不可能です。世には、人に向かって、あなたがたの教会の中にどうして使徒や預言者がいないのか、と言う人々がいるものです。パウロやその他の者の使徒職さえもたびたび否定されたように、神が今日に至るまで、 ご自分の教会にそうした人々を持っておられることを彼らは知りません。それからまた、自分たちにはこれらすべてがあると主張する団体が幾つかあります。彼らは聖書を読んで、真の神の教会には使徒、預言者その他がいるはずだということを知ります。そこで彼らは自分たちで、ある者を使徒、ある者を預言者、ある者を教師に任命しておいて、 これが、 自分たちが真の神の教会である証拠だとするのです。 ところが、その事実こそは彼らが真の教会ではないということの最も強力な証明です。もし彼らが神の教会であるなら、神ご自身が、使徒や預言者を彼らの中に置かれます。 しかし彼らが自分たちで使徒や預言者を作らなければならなくなったという事実が、彼らは実際には何も持っていなかったことを示しています。彼らは単に本物が欠けていることを隠すために偽物を置いているにすぎません。 しかし、偽物の存在は本物がいないことを強調するだけです。
人々からでなく
福音の教えに関する権威の根拠は、すべてキリストの神性という事実にあります。キリストが神であるから、福音の教えには権威があるのです。使徒や預言者たちにはこの真理が十分にしみこんでいたので、彼らの書いたものの随所にそれが表われています。 この手紙の第1節で、パウロは、人々からでもなく、人によってでもなく、「見えない神のかたち」(コロサイ 1:15)であり、また「神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿」(ヘブル 1:1-3)であるイエス・キリストによっていると宣言していることがわかります。キリストは、世が存在する以前、初めに神と共におられ、また神であられました (ヨハネ1:1、 17:5)。 「彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている」(コロサイ 1:17)。
父と御子
「イエス・ キリストと、彼を死からよみがえらせた父なる神」と言うのと、「わたしと父とは一つである_|(ヨハネ 10:30)は同じ言い回しで、関係があります。ふたりは共に一つの御座についておられます (ヘブル 1:3、8:1、黙示録 3:21)。 ふたりの間には平和の一致があります (ゼカリヤ 6:12-13)。 イエスは肉によればダビデの子孫でしたが、その全生涯を 通じて神の御子でもありました。聖霊があらゆることにおいてそのことを表してきましたが、神の御子であることが決定的になったのは、聖なる霊による復活においてでした (ロ ーマ1:3、4)。この手紙はパウロの使徒職と同じ権威を持っています。それは死からよみがえらせる力を持つかた、死からよみがえったかたからのものです。
ガラテヤの諸教会
ガラテヤは小アジヤの一地方で、 ゴ―ル人(現在フランスとして知られている国から来た人々)によって継承されていたのでそう呼ばれました。彼らは自分たちの名前からとった名の領土に、キリストの時代より3世紀前に落ち着きました。彼らはもちろん異教徒でした。彼らの宗教は、ブリテンの太古ケルト族の僧たちのそれとよく似ていました。使徒行伝16章6節、 18章23節を読むと、パウロが最初に彼らにキリスト教を宣べ伝えた人物だったことがわかります。ガラテヤ地方は、パウロがバルナバと共に最初の伝道旅行で訪問したイコニウムのルステラおよびデルベを含んでいます(使徒14章 )。
恵みと平安とがあなたがたにあるように
これは主の言葉です。そのことを思い出しましょう。ですから人の言葉以上の意味があります。主は中身のないあいさつをなさいません。それは、その言葉が言っている事柄を伴っています。神の言葉は創造します。創世記に、その創造する言葉の真の様相が表われています。
神は言われた 、「光あれ、すると光があった」。創造のどの場面でもそういうことが続きました。「彼が言われた、するとそれがあった」だから、ここで「恵みと平安があなたがたにあるように」と神が言われると、そうなります。「すべての人を救う神の恵みが現れた」テトス2:11)。「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる |(ヨハネ 14:27)。 「『遠い者 にも近い者にも平安あれ、平安あれ、わたしは彼をいやそう」と主は言われる |(イザヤ 57:19)。 神はすべての人に、たとえわたしやあなたがどんな者であっても、義と救いとを もたらして恵みと平安を下さいます。ガラテヤ人への手紙第1章のこの第3節 を読むときに、あいさつの文句の一種、つまりこれから本題に入る前のただの一時的なあいさつとして読んではなりません。そうではなく、あなたに個人的に、理解を越える神の平安という完全な祝福をもたらす創造の言葉として読むべきです。それは、わたしたちにとって、イエスがルカ 7:48-5で女に語った言葉、「あなたの罪はゆるされた」、「安心して行きなさい」と同じものです。平安はあなたに与えられるのですから、「神の平安があなたの心を支配する」ようにさせましょう。
キリストの賜物
この平安と恵みは、「ご自身をわたしたちの罪のためにお与えになった」キリストから来ます。「キリストから賜わる賜物のはかりに従って、わたしたちひとりびとりに恵みが与えられている」(エペソ 4:7)。 しかしこの恵みは 「キリスト・イエスにある恵み」です (第 2テモテ2:1)。 ですから、キリストそのものがわたしたちすべての者に与えられたのだということがわかります。人々が生きているという事実が、キリストが彼らに与えられていることの証拠です。 というのは、キリストは「命」であり、その命は人の光であり、 この命の光が世にある「すべての人を照らす」からです (ヨハネ 1:4、9、 14:6)。 キリストにあって万物は成り立っています (コロサイ 1:17)。 神が「ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡された」のですから神は無償で「万物をも賜わらないことがあろうか」(ローマ 8:32)。 「いのちと信心とにかかわるすべてのことは、主イエスの神聖な力によって、わたしたちに与えられている」(第 2ペテロ 1:3)。 全宇宙がキリストにあってわたしたちに与えられています。そして、キリストの中に満ち満ちている力は、罪に勝利するため、わたしたちのものです。神はわたしたちひとりひとりの魂を、創造されたすべてのものと同じく価値あるものとしておられます。キリストは神の恵みによって、すべての人のために死を味わわれた (ヘブル2:9)ので、世のすべての人は「言いつくせない賜物」(第2コリント9:15)を受けました。「神の恵みと、ひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物 とは、さらに豊かに多くの人々に満ちあふれた」。むしろ、すべての人々に満ちあふれたと言っていいでしよう。なぜなら「ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められたように、ひとりの義なる行為によって、いのちを得させる義がすべての人々に及ぶ」からです (ローマ 5:15、18)。
キリストは分けられたのではない
パウロは、「キリストはいくつにも分けられたのか。パウロは、あなたがたのために十字架につけられたことがあるのか 」(第 1コリント1:13)と 質問しました。答は明らかに「そうではありません」です。キリストがすべての人に与えられるというのは、ひとりひとりが彼全体を受けるのです。神の愛は全世界を包み込みますが、個々の人に向けられもします。母親の愛というものは子どもたちの間で分割されはしません。各自が母の愛の三分の一、四分の一、または五分の一を受けるのではなく、それぞれが母親の注目を全部受けるのです。ましてどんな母親にもまさる愛をもち、また愛そのものである神にとって、それはどれほどのことでしょう(イザヤ 49:15)。 キリストは世の光、義の太陽です。 しかし光は人間の群れの間で分けられることはありません。もし人で一杯の部屋が明るく照らされていれば、各自がまるでその人ひとりがその部屋にいるかのように光の益を全部受けます。同様にキリストの命は世に生れたすべての人々を照らし、すべて信じる者の心に キリストは、彼に満ちているすべてをもって宿られます。地に一つの種をまいてみなさい。それはやがで多くの種をつけます。一つ一つの種は蒔かれたものと同じだけの命を持っています。ですから、真の種であるキリスト、すべての価値あるものを生じるキリストは、彼の生命のすべてをすべての人にお与えになります。
わたしたちの罪はあがなわれた
キリストは、「わたしたちの罪のために ご自分をお与えになった 」。 それは、彼はわたしたちの罪を買いとり、その代価を支払われたということです。 これは事実を単純に述べています。用いられている言葉は、買うということ|こ関して普通に使われるものです。「そのためにいくら支払つたのか」、あるいは 「そのためにあなたはいくら欲しいのか」 とはよくある質問です。わたしたちが、ある人がある物にこれだけ支払ったというのを聞く時、すぐにわかるのは何でしょうか。その人がそれを買ったのだから、それはその人の所有物だ ということです。ですから聖霊がわたしたちに、キリストはわたしたちの罪のためにご自分をお与えになったと言うのを聞く時、何が確実だとわかるでしょうか。彼がわたしたちの罪を買ったということ、それらは彼のものだということ、そしてわたしたちのものではない ということです。それらはもはやわたしたちのものではなく、わたしたちにはそれらについての何の権利もありません。わたしたちが罪を犯す度に、わたしたちは主から盗んでいるのです。なぜならキリストは、わたしたちが犯した特定の罪の行為、過去にあった罪ばかりでなく、罪の行為が湧き出てくるわたしたちの内にある罪そのものを買いとられたからです。 このことを信じる信仰に義があるのです。
彼はわたしたちをも買われた
彼がわたしたちの罪を買いとられたという事実から、その次にはわたしたちをわたしたち自身から解放するということがわかります。わたしたちの罪はわたしたちの一部です。いや、それらはわたしたちのすべてです。なぜならわたしたちの生れながらの命には罪のほか何もないのですから。だからキリストは、わたしたちを買うことなくわたしたちの罪を買うことはおできになりませんで した。この事実についてはっきりと語っている言葉が幾つもあります。彼が、「わたしたちのためにご自身をささげられたのは、わたしたちをすべての不法からあがない出……すためにほかならない」(テトス 2:14)。「あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ」(第 1コリント6:19)。「あなたがたが先祖伝来の空疎な生活からあがない出されたのは、銀や金のような朽ちる物によったのではなく、傷も、しみもない小羊のようなキリストの尊い血によったのである」(第1ペテロ 1:18-19)
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「愛されて受けいれられた」
福音宣伝者は、だれかが次のように言うのを何回聞くことでしよう。「わたしはあまりにも罪深いので、主がわたしを受けいれてくださらないのではないかと恐ろしいのです。」そしてクリスチャンであると長年の間告白している人々でさえ、自分が神に受けいれられている確証が持てさえしたら、とたびたびつぶやくのです。主はそのような疑いには何の根拠もお与えになりません。受けいれられたかどうかについての疑間は、今読んだばかりのことによって永遠に解決されています。キリストはわたしたちのすべての罪と共にわたしたちを買って、その代価を支払われました。そのことは、彼がわたしたちを受けいれられたということを示しています。なぜ人は店に行って品物を買うのでしょうか。それが欲しいからです。もし彼が、買おうとしている物がどんな物か知るために調べた上で、その代価を支払ったら、商人は、被がそれを受けとらないのではないかなどと心配するでしようか。そんなことはするはすがありません。その商人はできるたけ早く買手にその品物を手渡すのが自分の仕事であると承知しています。もし破がその品物を買手に渡さなけれげ、詐欺だと言われます、その買い手はそれを気にとめずに、「ところで、わたしは 自分の分を果たして支払いした。そこで、もし被が彼の分を果たす気かなく品物を度さなくても、その必要はない。それたけのことだ。被が欲しいならその品物をとっておいていい」 と言うことはないでしよう。それどころか、彼は店を訪れて、「なぜあなたは、わたしの物を渡さないのか」とつめ寄るでしょう。彼は自分の財産を手にするために精一杯の手立てをこうじることでしょう。イエスにとってはなおさら、わたしたちが自分を彼に明け渡すかどうかということは、どうでもよいことではないのです。彼はご自分の血で買いとられた魂を、限りない切望をもって求めておられます。「人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである」(ルカ19:10)。神は「天地の造られる前から、 ・・・わたしたちを選」ばれました。ですから「神はわたしたちに神の子の身分を授けるようにと・・・定めて下さったのである。・・・その愛する御子によって」(工ペソ1:4-6)
「今の悪の世」
キリストは、「わたしたちを今の悪の世から救い出そうとして」、ご自身をねたしたちの罪 のためにささげられました。キリストは買いとったわたしたちから、わたしたちの罪深さを取られます。そのようにして、彼はわたしたちを「今の悪の世」から救い山されます。「今の悪の世」とは、とりもなおさずわたしたち自身の罪深い自我にほかなりません。それは「肉の欲、目の欲、持ち物の誇り」です(第1ヨハネ2 :16)。それらの悪を作るわたしたち自身が世にいるのです。世を悪としているのは人です。「ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして 、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んたのである」(ローマ5:12)。 わたしたちはたれか他の者に非難を投げつけようとすべきではありません。わたしたちは自らの悪で十分に自分を損なっています。
激しいかんしやくに付きまとわれて悩んでいた一人の男の物語を聞きました。彼は何度となく激しく怒りました。彼は一緒に住んでいる人々にあらゆる非難を浴びせました。彼らがしゃくにさわるのでした。たれだってこんな連中の中にいたら良いことなんて出来っこない と彼は言うのでした。そこで彼は多くの人々がやったように「世を去る」ことて解決しようとし世捨て人になりました。住まいとして、他の人間の住むからはるかに鰤れた森の中の洞窟を選びました。朝、彼は食のための家を汲みに近くの泉に水差しをもって出かけました。岩には苔がはえており、たえす水が流れているので滑りやすくなっており、水差しを流れの下に置くと滑り落ちてしまいました。被は置き直しましたが、また落ちてしまいました。な 2、3回こんなことが繰り返きれ、その水差しを置きなおす度ごとに、彼はいっそう力みました。ついにその世捨て人の忍耐は尽きました。
「じっとしていないんたったら、見ていろ!」と叫んで、水差しを取り上げてたいへんな勢いでたたきつけたので、粉々に碎けてしまいました。その場に自分以外に非難すべき者はだれもいませんでした。彼には、罪を犯させるのは自分の回りの世界ではなく、自分の内なる世界だとわかるたけの常識がありました。疑いもなく多くの人々は、この小さな物語の中に何らかの自分の経験を認めるでしよう。
ルターは、世から逃れるために行った修道院の独居室で、それまで以上に悲しむべき自分の罪を見出しました。わたしたちがどこに行こうとも、自分と共にある世界を連れて行くのです。その重く押しつぶされそうな重荷をわたしたちの心の中に持ち、背負っているのです。わたしたち良いことをしようとすると、自分の中に「悪がある」のに気がつきます(ローマ 7 : 21)それは今です、いつも「今の悪の世」です。そしてついに絶望のあまり、「わたしは、なんというみじめな人闘なのたろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるたろうか」と叫びます。キリストでさえ、人の住んでいるところからはるかに離れた荒野で最大の誘惑に会われました、これらのことはすべて、世捨て人や修道僧は神のご計画ではないこと教えています。神の民は地の塩です。塩はどんな良い塩であっても、箱の中にしまい込まれていれば役に立ちません。保存したいものと 混ぜ含わせなけれはなりません。
解放
神は約東なさった事を「なし遂げることかおできになる」。神は「わたしたちか求めまた思うところのいっきいを、はるかに越えてかなえて下さることができる」(工ペゾ3 : 20)。神は、「あなたかたを守ってつまずかない者とし、また、その栄光のまえに傷なき者として、喜びのうちに立たせて下さるかた」です(ユダ1:24) 神は、ご自分をわたしたちの罪のためにささげられました。それはわたしたちを解欣するためであり、むなしく死なれたのではありません、解放はわたしたちのものです。キリストは「肓人の目を開き、囚人を地下の獄屋から出し、暗きに座する者を獄屋から出させる」ためにつかわされました(イサヤ42 : 7)。ですから彼は、捕らわれ人に向かって「自由!」と叫ばれます。縛られている者に、獄屋の扉は開かれていると宣言されます(イサヤ61:1)。すべての囚人に向かって彼は、「出よ」と言われます(イザヤ49 : 9)。たれでもそうしたければ、「主よ、わたしはあなたの僕です。わたしはあなたの僕、あなたのはしための子てす。あなたはわたしのなわめを解かれました」と言ってよいのです(詩篇116 :16)。わたしたちが信じようと信じまいと,その事は真実てす。たとえわたしたちがかたくなに仕える事を拒むとしても、被はわたしたちを買いとられたのですから、わたしたちは主の僕です。そしてわたしたちを買いとられたキリストは、わたしたちが彼に仕えることを阻むあらめるなわ縄目を解いてしまわれました、わたしたちが信じさえすれば、世に勝つ勝刊を持つことが出来ます(第1ヨハネ5 : 4、ヨハネ16: 33)。わたしたちへのメッセージは、わたしたちの「服役は終わり」、わたしたちの「とがはゆるされた」という事です(イサヤ40 :2)。わたしたちは、イスラエルがエリコを前にした時のように、神がわたしたちに与えてくたさった勝利を見るために叫ぶたけです。「神はその民を顧みてこれをあがな」われました(ルカ1:68)。救う者がシオンからきて、ヤコプから不信心追い払いました[ローマ11: 226]。「主イエス・キリストにより勝利をわたしたちに陽わる神は感謝すべきかな 」
わたしの罪が、
ーああ、この輝かしい考えの
たとえようもない幸い一
わたしの罪が、
一部ではなぐ全部、彼の十字架に
くぎ付けられた
たから、わたしはもうそれを負ってはいない。
主をほめよ、主をはめよ、
おお、わが魂よ、
神の御旨
この解攷はみな、「わたしたちの父なる神の御旨にしたがっている」。神の御旨はわたしたちが清くなることです(第1テサロニケ4 : 3)。「神ほ、すべての人が救われて、真理を悟ることを望んでおられる」(第1テモテ2 : 4)。そして神は御旨の欲するままにすべての事をなさる」(エペソ1 : 11)。「何と!あなたは万民報済を教えるつもりか」と言う人があるかもしれません。わたしはただ、神のみ言葉が教えていることを教えようとしているのです。それは、「すべての人を救う神の恵みが現れた」ということです(テトス2 :11)。神はすべての人のために救いを完成された、そしてそれをお与えになった、ところが多くの者かそれをはねつけ、捨て去るのです。完全で十分な救いがすべての人に与えられましたが、失われた者は彼らの既得の所有権を故意に投げててしまったのだという事実を、さばきは明らかにするでしよう。こうしてすべての口は封じられます。
だから神の師旨とは、それを喜ぶためのものであって、顔をしかめて受けいれるようなもの、また、ただがまんするものではありません。たとえ苦難を含んでいるとしても、それはわたしたちにとって良いものであり、「永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させる」ために計画きれています(第2コリント4:17、ローマ8 : 28) 律法の中に神の御旨は現わされています(ローマ2:18) ですから、わたしにちはキリストと共に、「わが神よ、わたしはみこころを行うこと喜びます」(詩篇40 :8)と言いつつ、それを学ふべきですい
ここに神の御旨を知ることの慰めがあります。被は罪の束縛からわたしたちを解放して下さるつもりなのですから、絶対の確信をもって、また感謝をもって、祈ることができます。なぜなら、「わたしたちが神に対していたいている確信は、こうである。すなわち、わたしたちか何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞き人れて下さるということである」[第1ヨハネ5 :14-15)。幸いな保証を喜びつつ、ヘりくだった心で、「みこころが天に行われるとおり、地にも佇われますように」といつも祈りましよう。
神に栄光があるように
「神に栄光があるように」とは、たた一般の訳における「彼に栄光があるように」というのでなく、改定訳での「栄光であるおかたに」、また「国と力と栄えとはあなたのものです」という意味です。すべての栄えは、たとえ人がそれを認めようと認めまいと、神のものです。神に栄光を与えるとは、神にはない何かを与える事ではなく、事実を認めることです。わたしたちは、神は力あるおかただと認めることで、彼に栄光を与えます。「われらを造られたものは主であって、われらは主のものである」(詩篇100 : 3)。絶大な神のカによって、キリストは死からよみがえらせられた、と告げているエペソ1章19、20節や、「キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされた」事がわかるローマ6章4節によると、力と栄光は同じです。またイエスが驚くべき力により水をふどう酒に変えられたとき、奇跡を行う事で彼は「その栄光を現わされた」とあります(ヨハネ2 :11)。だから、神は栄光あるおかただと言うときには、あらゆる力は神から来ると言っていることなのです。わたしたちが自分を救うのではありません。わたしたちにはその力がないからです。しかし神は全能ですから救うことがおできになるし、救って下さいます。もしわたしたちがすべての栄光は神に属すると告白するのなら、虚栄心の強い想像とか誇りにふけらないようにしましょう。そうすれば神はわたしたちにあって栄光とされるでしよう。「あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたかたの父をあがめるようにしなさい」 (マタイ5 :16)
神のさぼきのが来たと知らせる「永遠の福音」の宣告の主旨は、「神を恐れ、神に栄光を帰せよ」、「天と地と海の源とを造られたかたを、伏し拝め」、ということです。(黙示14: 6-7)。こうして、「栄光が・・・神にあるように」と言っているガラテヤ人への手紙は永遠の福言を述べているのだということがわかります。そして、それは特別に最終時代のためのメッセージてす。研究し、大切にしましょう。そうすればわたしたちは「海が水でおおわれているように、地は主の栄光の知識で満たされる」時代を早めることができるかもしれませ(ハバクク2 :14)。
危機の場合
使徒が彼の主題の中心に突入した唐突さは、この手紙を書かせた問題がどれほど急を要していたかを示しています。彼の魂はまるで火の上にあるかのようであって、筆を握り、減びに突進しようとしているへの重荷を心に感じている人たけが書くことができるような書き方です。
たれが人を招くのか
「神は真実なかたである。あなたがたは神によって召され、御子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに、 はいらせていただいたのである」(第1コリント1 : 9)。「あなたがたをキリストにある永遠の栄光に招き入れて下さったあふるる恵みの神」(第1ペテロ5・ 10)。「この約東は、われらの主なる神の召しにあすかるすべての者、すなわちあなたがたと、あなたがたの子らと、遠くの者一同とに、与えられているものである」(使徒2 : 39)。だから、近くにいる者、遠くにいる者、世界にいるすべての者を合む、あらゆる人を神は召されます。ところがすべての者か来るのではありません。「どうか、平和の神ご自身が、あたかたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからたとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように。あなたがたを召されたかたは真実てあられるから、このことをして下さるであろう」(第1テサロニケ5 ; 23-24)。人を召されるのは神です。
神から離れて
ガラテヤの兄弟たちが被らをお招きになったかたから離れたということ、そして神があわれみ深くも人を招かれるかたであることから、彼らは神から離れたのだということか明白です。そこで、この手紙を書くに至った事情はささいなことではなかったことがわかります。バウロの兄第たちは致命的な危険の中にいたのでした。だから彼はただのあいさつに時間をとることはできず、すぐに主題に人り、できるたげはっきりと率直な言い方で提示する必要がありました。
カラテヤの兄弟たちを招いたのは自分であるとパウロが考えていて、その彼から彼らは離れて行っていたという意見を持つ人か時々いますが、それについて考察してみるのもいいかもしれません。少し考えてみれば、この考えの誤りにだれもが気づくに違いありません。まず、すでに見た決定的な証拠、すなわち召されるのは神であるということを少し考えて下さい。また、パウロ自身、第子たちを自分の方にひっぱり込もうとする者は背教者となると言っている事を思い出して下さい(使徒20: 30)。キリストの僕としての彼は、自分に人を引きつけようとする可能性の最も少ない人物です。神が人を召されるのに代理者をお用いになるのは確かであり、パウロはその一人でした。それにもかかわらず召されるのは神です。「神はキリストにあって、世をご自身に和解させられた」。わたしたちはキリストの大使です。たから今は、キリストによらずわたしたちを通して、神は人々に神との和解を嘆願しておられます。語る口は多くあるかもしれませんが、声はただーつです。
人と結び付いたり、離れたりするのはたいしたことではありませんが、神につながることはとても重大な事てす、多くの人々は、この教会またはあの教会で立派にやっている教会員でありさえすれは安全である考えているようです。しかし.考えなければならないのは、わたしは主につながっているだろうか、その真理の内を歩いているだろうかということたけです。もし人が主につながっていれは、自分が神の民の中にいることがすぐにわかるてしょう。神の民でない者たちは、熱心でないし、神に従う者を自分たちの間にそれほど長くとど めておこうとはしないからです。イサヤ66章 5節、ヨハネ9章22節、33節、34節、15 章18節、16章1-3節、第一テモテ3 章1-5、12節を見てくたさい。パルナバは、アンテオケに行ったとき、「主に対する信仰を」 揺るがない心で特ちつづけるようにと兄弟たちを励ました」(使徒11: 22-23)それが必要なことの全部です。もしそうするなら、わたしたちは間違いなく神の民と共にいることになるでしょう。
神なしに
神から離れていた者たちは、神から遠さけられた状態、「世にあって神のない」状態にありました。しかし、そういう状態にいる者たちは異邦人または異教徒です。(エペソ2 :11-12)ですから、ガラテヤの兄弟たちは異教に逆戻りしていたことが明らかです。それ以外にはありえません。クリスチャンが神から離れるとかつて自分がそこから救い出された古い生活に、いつも決まって、しかも気のつかないうちに戻ってしまうからです。背教者はそれぞれ、以前自分が奴隷となっていた特定の習慣を再びするようになります。神なしにいるという状態以上に望みのないことは世にありません。
違った福音
幅音は,「すべて信じる者に、救いを得させる神の力」です(口一マ1:16)神ご自身が力ですから、神からの離反は、神の力であるキリストの福音からの離反を意味しています。救いを与えると公言するものでないかぎり、福音と呼べるものはありません。死より他に提供できないというのは、福音ではありえません。「福音」とは「喜ばしいニュース」、「うれしい知らせ」という意味であり、その言うことに、死に関する契約は口を封じられるのです。周違った教義が福音としてあらわれるのには、それが命の道であると見せかける必要があります。そうでなけれは人を欺くことはできません。だからガラテヤ人たちは神以外の力による、言い替えれば自分自身の力による命と救いを約束するものによって、神からそらされていたことが明らかです。この違った福音は単なる人間の福音にすぎません。悶題は、どちらが本当の福音かということでしよう。それはパウロが宣べ伝えたものか、それとも他の者が述べ立てているものか。たから、この手紙は、あらゆる闘違った福音から区別される本当の福音を強く提示しているに違いないということかわかります。
他には福音はない
イエス、キリストだけが神の力であって、救いを得させる名はイエスの名以外に人には与えられていません。だからただーつの福音しかありません。「力は神に属する」、そして神にのみ属します。詩篇62篇9 -11節を見てください。まがいものはむなしい。仮画は人ではありません。だからガラテヤの兄弟たちがそそのかされていた別の福音は、たたゆがめられた、偽の、まがいものであり、全然福音などではありませんでした。ある訳では6節、7節が次のようになっています。「わたしはあなたがたがこんなにもすぐに違った福音の方に動かされたことに驚いている。大体そんなものなどないのに」。今、別の福音などというものはないのたから、かつても別の福音があったはずがありません。神は変化することのないかただからです。したがって、パウロが、コリント人に伝えた福音すなわち「十字架につけられたキリスト」と同じく、ガラテヤ人に宣ペ伝えた福音は、エノク、ノア、アプラハム、モーセ、またイザヤによって宣ペ伝えられたものと同じです。「預言者たちもみな、イエスを信しる者はことごとく、その名によって罪のゆるしが受けられると、あかしをしています」(使徒10:43
「のろわれる」
もし、だれでも、それがたとえ天からの御使いであったとしても、パウロが宣べ伝えた福音とは別の違った福音を語るなら、その者はのろわれます。善と悪との標準は、二つとはありません。今日のろいをもたらすものは、五千年前にも同じ結果を引き起こしました。こうして、救いの道はどの時代でもまったく同じであったことかわかります。御使たちかっかわされて、福音がアプラハムに宣へ伝えられ(ガラテヤ3:8)、また、預言者たちがその福音を宣べ伝えました(第1ペテロ1:11-12)。しかし、もし彼らが宣ペ伝えた福音が、パウロが宣ペ伝えた福音と違っていたら、彼らはのろわれていたことでしょう。
なぜ、違った福音を官ペ伝えると人はのろわれるのでしようか。そのわけは、その人は、 実際には何もないものに力があると語って、救いのためにそれに依り頼むようにさせることで、他人をのろいに定める役目を果たすからです。ガラテヤ人たちは神から離れて行ったのだから、彼らが、誤って考えていた人間の力、すなわち自分自身の力に救いを依存していたことは明らかてす。しかし、だれも他人を救うことはできません(詩篇49 : 6)。だから、「おおよそ人を頼みとし肉なる者を自分の腕とし、 その心が主を離れている人は、のろわれる」(エレミヤ17: 5)。人をのろいに導く者は、もちろん自分ものろわれます。
「盲人を道に迷わす者はのろわれる」(申命記27-18)。もし身体的に盲人である人をつますかせる者にとってそうであるなら、魂を永遠の破減に向けてつまずかせる者にとっては、なおさらあてはまることてしよう。救いについての偽の望みー彼らを解放することの出来ないものに依り頼むようにさせることーで欺く者以上の悪人がいるでしようか。それは人に底なしの穴の上に家を建てさせるようなものです。. 使徒が故意にのろいを繰り返しているのは当然です。ここでまたもや、この手紙を書くことになった状況の容易ならないことがわかります。
天からの御使
しかし、ただーつの真の福音以外のものを、天からの御使が宣べ伝えるという危険と可能性があるでしようか。疑いもなく、今天からやって来る御使のことではないでしよう。「罪を犯した天使」(第2ペテロ2:4)や、また「自分たちの地位を守ろうとはせず、そのおるべき所を捨て去った御使たち」のこと、また彼らのおるべき所とは天であって、そこから投げ落されたことが聖書に書いてあります(黙示12: 7-9)。今、「サタンも光の天使に擬装する ・・・だから、たといサタンの手下どもが、義の奉仕者のように擬装したとしても、不思議ではない」(第2コリント11:14ー15)。自分たちは死んた者の霊であって、上なる国(死んだ者はそこにはいない)から新しいメッセージを持ってきたと公言し、イエス・キリストの福音とは違う「別の福音」を宣ペ伝えるのはきまって彼らなのです。彼らに注意しなさい。「愛する者たちょ。すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神がら出たものであるかどうか、ためしなさい」(第1ヨハネ4:1)。「ただ律法と證証とを求むべし。被等のいうところ此言にかなわずば晨光(しののめ)あらじ。(イサヤ8 : 20文語訳)。神の言葉をしっかりとつかんでいるかぎり、だれも欺かれる必要はありません。そうです、神の言葉をつかんでいるあなたは、だれも欺かれるはすがありません。神の言葉は道の光です。
人を喜ばせない者
教会は最初の3世紀に異教を混入したこと、改革にもかかわらず今なお多くの異教の考えが残っているということは、諸教会の人々が認めています。ところで、これは人を喜ぼせようとした結果です。監督たちは、福音の原則の厳格さをいくらかゆるめることによって、異教徒に感化を及ぼすことが出来ると考えました。そして彼らはそうしました。その結果が教会の腐敗でした。人をなだめ、喜ばす努力の底には、いつでも自己愛があります。監督たちは(ときには、おそらく意識せずに)常に人を自分に引きつけていたいと願いました。(使徒20:30)。人々の好意を得るためには、彼らは妥協し、真理を曲げねばなりませんでした。これがカラテヤで行われていたことでした。人々はキリストの福音をゆがめていました。しかし、パウロはそういう種類の人闇ではありませんでした。彼は人ではなく、神を喜ばせようとしていました。彼は神の僕であって、彼にとっては、喜ばす必要のあるのは神だけでした。人を喜ばそうとする者は、神の僕ではなく、人の奴隸です。
この原則はあらゆる段階の奉仕においても真実です。人を喜ばすためにだけに働く家事手伝い人や商店の雇人は、忠実な僕でほありません。というのは、彼らは見られている所だけで良い仕事をしようとしますが、雇主の目の届かないところではわずかの仕事もしようとはしないからです。だからパウロは、「僕たる者よ、何事についても、肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとして、目先だけの勤めをするのではなく、真心をこめて主を恐れつつ、従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から働きなさい。あなたがたが知っているとおり、あなたがたは御国をつぐことを、報いとして主から受けるであろう。あなたかたは主イエス・キリストに仕えているのである」(コロサイ3 : 22-24)と熱心に勧めます。神に仕え、神を喜はせることだけを考える者は、人に最高の奉仕を捧げるでしょう。
これはすべての人に印象づけられる必要があります。クリスチャンの動き人には特にそれが必要です。,影響力のある裕福な人物の好意を失うまいとして、真理の縁を鈍くする傾向があります。全践や地位を失うのを恐れて、どれぼどの人たちが曜信をもみ消してしまったことてしよう。「もし、今もなお人の歓心を買おうとしているとすれば、わたしはキリストの僕ではあるまい」ということを覚えていましよう。しかしこれは頑固で無礼になることでありまぜん。わざと人の感情を害することではありません。神はだれに対しても良いかたです。神は感謝の無い者にも、清くない者にも、親切です。イエスは愛と慰めの言葉を語りつつ、良いわざをしようとして出て行かれました。わたしたちは魂を勝ち取る者なのだから、それに成功するやり方をしなけれはにりません。しかし、神のために魂を勝ち取るのですから、愛するおかた、十ネ架にかけられたおかたの魅力だけが現わされるべきです。わたしたちは、彼の霊が自分を支配するがままにさせることによって、キリストに仕えるのです。
「彼の柔和なくびきをもっともよく負う者が、彼にもっともよく仕える。」
人間によらず
この手紙が、福音は人によるものでなく、神によるものたという事実を強調していることに注意してくたさい。最初の5節で、。使徒は、自分は人につかわされた者でもなければ、だれかの代理人でもないと明言しています。重ねて彼は、自分ただキリスト以外どんな人をも喜ばすつもりはないと言います。そしてここで、 彼が伝えるメッセ--ジは全く天からのものだということをきわめてはっきりときせています。生れながらに、また教育によって彼は福音に敵対していました、そして彼が回心したのは天からの声によったのでした。使徒9章-22節、22章3-16節、26章9-30節にある彼の回心の記事を読んでくたさい。神の聖徒たちに対して脅迫、殺害の息をはずませていた時の彼に、主ご自身が現れたのです。
回心の経験が全く同じ人は二人といませんが、一般的な原則はみな同じです。事実上、すべての人がパウロと同じように回心すべきです。その経験が彼の場合ほど衝撃的であることはったにないでしようが、もし真正なものであれば、同じように必ずや天からの啓示であるはずです。「あなたの子らはみな主に教えをうけ」る(イサヤ54:13)「父から聞いて学んた者は、みなわたしに来るのである」(ヨハネ 6 : 45)。「あなたがたのうちには、キリストからいただいた油がとどまっているので、だれにも教えてもらう必要はない。この油が、すべてのことをあなたがたに教える。それはまことであって、偽りではないから、その油が教えたように、あなたがたは彼のうちにとどまっていなさい」(第一ヨハネ2 : 27)
これは福音宣伝に関して人間の代理者を一切必要としないことだ、と憧測する間違いをしてはなりません。もしそうすれば、使徒たちは自分自身を非難していることになります。なぜなら彼らは福音を宣べ伝えていたからです。神は使徒、預言者、教師その他を教会内にお立てになりました(第1コリント12:8)。しかし、彼らすべての内に勧いているのは神の霊です。「神がおつかわしになったかたは、神の言葉を語る」(ヨハネ3 : 34)。ですから、最初にだれから真理を聞いたかは問題でなく、人はそれをまるで天から直援来たものとして受いれます。聖霊は、神の御旨を行いたいと望んでいる人たちに、彼らがそれを見たり聞いたりするとき、すぐに何が真理であるかを告げることができます。すると彼らはそれをもたらした人問の権威のゆえではなく、真実な神の権威のゆえに受けいれるのです。わたしたちはパウロと同様に、わたしたちが把握し教えている真理について確信をもってよいのです。しかし人が、自分の信仰を正当化するために、または真理そのものより彼が確信を持つ人物の方に重きをおくために、高い評価を受けている説教者のだれかれの名前を引合に出すようなときはいつでも、その人は自分が告白している真理についてわかってはいないのです。それは真理かもしれませんが、彼はそれが真理であることを自分でわかっていません。真理を知るのはすべての人の特権であり(ヨハネ8 :31-32)、人が神から直接に真理をつかむと、万の万倍の数の偉大な名前も、その真理の権威に一枚の羽ほど重さも加える助けにはならないし、たとえ地上の偉大な人々がすべてそれに反対しても彼の確信は少しもはるぎません。岩の上に建てることはたいしたことです。
イエス・キリストの啓示
それはただイエス・キリストによる啓示であるばかりでなく、「イエスキリストの啓示」であることに気をつけて欲しいのです。キリストがパウロに何かを語られたというばかりでなく、キリストはご自身をパウロに現わされたのです。そして彼の中に真理があり、被は真理です。ここで言おうとしていることは16節からわかります。そこには、神が御子をパウロに啓示された、またそれは彼が異邦人の間にキリストを宣ペ伝えるためだったと書いてあります。福音の奥義は、信じる者の内にいますキリスト、栄光の望みです(コロサイ1 : 25-27)。 聖霊はキリストの個人的な代表者です。キリストは、わたしたちと永遠に共におられようとして聖霊を送られます。世はそれを受けません、それを見ようとしないからです。しかし「あなたかたはそれを知っている」とキリストは言われます。「なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたかたのうちにいるからである」(ヨハ14:16-17)。そうであるときにのみ、神の真理を理解することができ、 理解させることかできます。キリストは遠く離れて立っていながら、わたしたちに従えと言って正しい原則を示されるのではなく、ご自分をわたしたちに印象づけ、そこでわたしたちが彼にゆだねると、わたしたちをご自分のものとし, その命をわたしたちの死ぬべき体に現わされます(第2コリント4 :11)。この命が輝き出なけれは、福音の宣教はありえません。イエスがパウロに啓示されたのは、パウロが異邦人の間にキリストを宣べ伝えるようにするためであったことに気をつけて下さい。彼はキリストについて宣教するのではなく、キリストご自身を現わしたのです。「わたしたちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣ペ伝える」(第2コリント4 : 5)。
神はキリストをすべての人に啓示しようと待ち、かつ切望しておられます。「不義をもって真理をはば」む者たちのこと、また、「神について知りうる事がらは、彼らに明らかであり」、神は「神の永遠の力と神性」が明らかに認められるようになさったということが書いてあります(ローマ1 : 18-20)。さて、キリストは真理です(ヨハネ14-16)、また彼は神の力であり(第一コリント1:24)、神でした(ヨハネ1:1)。ですから、不義なる者がはばんでいるのは、キリストです。彼は神の言葉です。彼は人の内にあってその言葉を行うのです(申命記30:14、ローマ10:6-8)。キリストはすべての人の内にいますということは、すべての人が生きているという事実から確かです。しかし、キリストはあまりにも阻まれ、押さえ込まれているので、彼を見分けるのが困難です。それどころか、ほとんどの人の中には、反対の品性が現わされており、多くの場合、ただ生きて息をしているという事実だけがキリストがそこにおられる証拠であるにすぎません。しかし、キリストはそこにおられます。現わされるのを忍耐強く待ちつつ、神の言葉が思うままに事を成し、栄光を帰せられ、ナザレのイエスの完全ないのちが死ぬべき肉体に現わされる時の来るのを待ちこがれておられます。これは、その人が今どれはど罪深く、堕落していようとも「だれでも望む者」の内に実現します。今そうすることを、神は喜ばれます。たから抵抗するのをやめましよう。
個人の経歴
第1章の12節から2章の中ほどまで、個人の経歴の物語が明確な目的をもって語られています。パウロの経験から、福音の真理と、それが人からは何も取らないで、すべてを与えるものだということがどういうことなのかがわかります。使徒は、彼の生涯の初期に、福音に反対することを学んだので、福音に感化されることを拒んでおり、激しく反対しました。それから、近くにだれもクリスチャンがいなかった時に回心しました。その後何年間かクリスチャンとの関係は無いも同然でした。こうしたことをすべて、ガラテヤ人たちは前から知らされていましたが、パウロは、だれか別の人間の発案を彼らにもたらしたのではなかったということをみんなに明らかにするために、自分の経歴を繰り返すことが必要でした。
今日ではあまり一般的ではない感覚で、聖書の中に数回用いられている「行動」という言葉に気をつけてください。別訳の聖書と比較すると、「生活の作法」という意味だとわかります。パウロの「過去における行動」は彼の初期の生活でした。
熱心の点では教会の迫害者
これはパウロかピリピ人への手紙の中で、自分について言ったことです(ピリピ3 : 6)。彼はどんなに熱心であったか自分で語っています。彼は、神の教会を「激しく」迫害し、「荒らし回った」。使徒8章3節も見てくたさい。 アグリッパの前で彼は、こう言いました。「わたし自身も、以前には、ナザレ人イエスの名に逆らって反対の行動をすべきだと、思っていました。そしてわたしは、それをエルサレムで敢行し、祭司長たちから権限を与えられて、多くの聖徒たちを獄に閉じ込め、被らが殺される時には、これに賛成の意を表しました。それから、いたるところの会室でしばしば彼らを罰して、無理やりに神を汚す言葉を言わせようとし、彼らに対してひどく荒れ狂い、ついに外国の町々にまで、迫害の手をのばすに至りました」(使徒26 : 9-11)。彼の生活を知っていたエルサレムのユダヤ人に向かって、彼は、「この道を迫害し、男であれ女であれ、縛りあげて獄に投じ、彼らを死に至らせた」(使徒22 :4)と言いました。彼かこのようなことをしたのは、前の聖句て言っているように、彼が「神に対し熱心であった」からです。彼はこのような然心ていっぱいだったので、ただただ「脅迫、迫害」の息をはずませていたのです(使徒9 :1)
真の神を礼拝すると公言する者が、そういう奉仕が神を喜ばすと思い込んで、神についてそれほどにも聞違った考えを持つことがあるとはほとんどに信じられないように思われます。ところが、かってなかったはど最も苦く無慈悲なクリスチャンの迫害者、タルソのサウロは、何年か後に、「わたしは今日まで、神の前に、ひたすら明らかな良心にしたがって行動してきた」と言うことかできました(使徒23;11)。サウロはトゲを蹴り、クリスチャンの忍耐強さを目撃し、彼らが死に際してする真理についての証を間き、自分に迫り次第に大きくなる確信を黙らせようと努力しながらも、意図的に良心の声にかたくなになったのではありませんでした。それどころか、彼は良心を保とうと努力していたのてす。そしてパリサイ人の言伝えをあまりにも深く教え込まれていたので、これらの都合の悪いトゲは、抑え込むべき悪霊のそそのかしにちがいないと感じたのです。それで神の霊のトゲは、当面、クリスチ+ンに反対する彼の熱心さを倍加させるだけでした。世にあるすべての人の中で最も自己を義とするパウロには、キリスト教に傾くものは伺もありませんでした。しかし、彼の間違った方向への熱心さは「神についての熱心」てした。そしてこの事実が、彼をクリスチャンの働き人として良い人材としたのです。
パウロの益
パウロは、彼の時代の同国民である同輩の多くにまさり、「ユダヤ人の宗教において」卓越していました。彼は、ユダヤ人の若者にとって可能な限りのあらゆる有利さを特っていました。「へプル人の中のヘブル人」(ピリピ3 : 5)、 そればかりか、彼は生れながらにローマの自由市民でした(使徒22 : 26 – 28)生れつき機敏で知性が豊かな彼は、最も賢い律法学者の一人、ガマリエルの指導を楽しみ「先祖伝来の律法についてきびしい薫陶を受け」ました(使徒22:3)。彼は、ユダヤ人たちの間の「最も厳格な派」に従い、パリサイ人として生活しました。「パリサイ人の中のパリサイ人」であり、彼の階級のだれよりも先祖の「言伝えにきわめて熱心」でした。彼は成人すると、ユダヤ人の大議会サンヒドリンの一員になりました。それは、彼がクリスチャンを死に定めるとき賛成の意を表したとあるとおりです(使徒26 :10) これに加えて、彼は、大祭司の信任を得ており、大祭司は、全国の会堂司たちに宛てた、「異端者」としてとがめられた者を捕えて縛りあげる権のある紹介状を、ただちに彼に与えました。彼は実際に出世しつつある若者であり、ユダヤ人の指導者たちは、彼がユダヤ国民と宗教の回復に関し、今までの偉人をきらに上回る貢献をするだろうと信じ、誇りと望みをもって彼を見ていました。世的な観点からみれば、サウロの前途には約東された将来がありました。しかし、彼が得たこれらのものを、彼はキリストのために損とみなしました。キリストのために彼はいっさいのものを損と思うようになりました(ピリピ3:7-8)
キリストの宗教でなく、先衵の言伝え
バウロは、「同国人の中でわたしと同年輩の多くの者にまさってユダヤ教に精進をし、先祖たちの言伝えに対して、だれよりもはるかに熱心であった」と言っています。「ユダヤ教」が神とイエス・キリストの宗教ではなく、人聞の言伝えであった事はたやすくわかります。人々は、「ユダヤ主義」を旧約の宗教だと考えるという大きな間違いを犯しています。新約はローマカトリック主義を教えているのではないように、旧約はユタヤ主義を教えているのではありません。旧約の宗教はイエス・キリストの宗教です。使徒たちが後に宣べ伝えたのと同じ福音を提示するように預言者たちを感動させたのは、キリストの霊でした。(第1ペテロ1;10-12。パウロが「ユダヤ教」だった時、毎日読んだり聞いたりしていた旧約聖書を彼は信じていなかったと言えるでしよう。理解していなかったからです。もし彼が理解していたら、キリストを信していたでしよう。「エルサレムに住む人々やその指導者たちは、イエスを認めず、安息日ごとに読む預言者の言葉も認めなかったからである。彼らはイエスについての預言を成就した」(使徒13: 27英訳)。
先祖の言伝えは神の戒めを破棄するようにさせました(マタイ15: 3)。神はユダヤの人々 (全体としての)のことを次のように言われました、「この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間のいましめを教えとして教え、無意味にわたしを拝んでいる」(マタイ15: 8-9)。安息日に指導者たちは会堂で聖書を読み、その教えについては非難すべきことはありませんでした。イエスは、「律法学者と、パリサイ人とは、モーセの座にすわっている。だから、彼らがあなたがたに言うことは、みな守って実行しなさい。しかし、彼らのすることには、ならうな。彼らは言うだけで、実行しないから」と言われました(マタイ23 : 2-3)。イエスはモーセと彼の書いたものを一言も非難されませんでした。彼はユダヤ人に向かって、「もし、あなたかたがモーセを信じたならば、わたしをも信じたであろう。モーセはわたしについて書いたのである」(ヨハネ5 :46 )と言われました。だから学者たちがモーセの書いたものから読んで命じたことはみな、実行すべきことでした。しかし、読んだ者たちは聖書に従っていなかったので、彼らを模範とするのは避けなけれはなりません。キリストは、「(彼らは)重い荷物をくくって人々の肩にのせるが、それを動かすために、自分では指一本も貸そうとはしない」と言われました。(マタイ23 :4)。これらは神の戒めではありませんでした。というのは「(神の)戒めはむずかしいものではない」(第1コハネ5 : 3)からです。そして重いものはキリストのものではありません。彼の荷は軽いからです(マタイい11:30)。
わたしたちはガラテヤ人たちをそらそうとした「ユダヤ教の教師たち」について多くを聞き、「違った福音」を教えていた人々はユダヤ人だったことを知っています。しかしこれらの「ユダヤ教の教師たち」が、新しい回心者たちに聖書またはその一部を提示していたとか、モーセによって書かれた聖書に彼らを従わせようとしていたと考える闘違いを犯してはなりません。それどころ彼らは人々を聖書から引き離し、その教えの代わりに人闇の戒めに導いていました。これがバウロの精神を奮起させたのです。「ユダヤ教」は、律法や預言者や詩篇で教えられている神の宗教とはまったく違ったものでした。
「神の福音のために選び分かたれた」
「神の福音のために選び分かたれ、召されて使徒とななった」。これはローマ人への手の中でパウロが自分の事を説明している言葉です (ローマ1:1)。また彼はここで、彼が「母の胎内にある時からわたしを聖別し、み恵みをもってわたしをお召しになった」と言っています(ガラテヤ1:15)。サウロが自分でもクリスチャンになることなど全然考えなかった以前から、神は彼を使徒とするためにお選びになったということは、この神聖な物語によって明白です。彼は「脅追と迫害の息をはずませ」なから、ダマスコへの途上を、男も女もすべてのクリスチャンを獄に入れるために捕え、縛り、ひきずって行くだけの権限をもって進んでいました。サウロは突然、人の手によってではなく、主の圧倒的な栄光によって止められたのです。三日後に、サウロの視力を回復させるためにアナニヤを遣わされたとき、主は、「あの人は、異邦人たち・・・に、わたしの名を伝える器として、わたしが選んだ者である」と言われました(使徒9:5)。サウロが迫害の狂気に捕えられていた時に、神は彼をとどめられました。彼を使徒としてお選びになったからです。それで彼が蹴っていたトゲは、彼が召された働きに彼を向けさせようとする聖霊の訴えであったことがわかります。
しかしこの時よりどれはど前から、サウロは主の使命者として選ばれていたのでしようか。彼は自ら、生れた時から「選び分かたれていた」のだと言っています。生れた時から生涯の仕事をするために選ばれていたと記されているのは彼が最初ではありません。サムソンの場合を思い出して下さい(士師13: 2 -14)。パプテスマのヨハネは生れる何ヶ月も前から名前を与えられ、彼の品性と生涯の仕事について説明されていました。主はエレミヤに、「わたしはあなたをまだ母の胎内につくらないさきに、あなたを知り、あなたがまだ生れないさきに、あなたを聖別し、あなたを立てて万国の預言者とした」と言われました(エレミヤ1:5) 異教徒の王クロスは、彼が生れる百年以上も前に名を呼ばれ、神のわぎの一端をになう働きが彼のために定められていました(イザヤ44:28、ま45 :1-4)
これらは特別な事例ではなく、この世における神の支配をわたしたちに示す目的で記録きれたのです。テサロニケ人たちについて、「神が」彼らを「初めから選んで御霊によるきよめと、真理に対するに信仰とによって、救いを得させようと」されたとあるのは、すべての人々にとっても同じく真実です(第2テサロニケ2:13) 。その召しと選びを確実にするのは、すべての人次第です。そして、「すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる」かたは(第一テモテ2:3)、また「それぞれ仕事を割り当て」ておられます(マルコ13:34)。無生物の創造においてさえ、ご自分をあかししないではおられないかたは、(使徒14;17、ローマ1:20)、地上における最高の創造である人問が、人間の知性によってだけできるような証を進んでするのを喜ばれるてしょう。すべての人は神の証人として選はれ、各々仕事が割り当てられています。聖霊は、神が召された働きに用いられるのを各自が認めるよう、その人の一生を通じて説得に努めます。たださばきの日だけが、どれはどすばらしい機会を人が無謀にも放り投げてしまったかを明らかにすることでしよう。ひどい迫害者であったサウロは力強い使徒となりました。人々に及ぼす大きな力を悪のためだけに発揮していた人が、もし聖霊の感化に身をゆだねるなら、どれほど大きな善をすることができるか、だれが想像できるでしよう。すべての人がサウロではありませんが、神がお与えになる力に従って各々が神を証するために神から召され、選はれているという考えがいったん把握されるなら、それはその人の生活に新しい意靺を与えることでしよう。
その真理を知ると、わたしたちは神のみこころを個人的に知りたくなり、神がわたしたちのために計画された働きに用いていただけるように、全的に神に服すようになり、生活がもっと現実的になるばかりでなく、もっと他人の事を思いやるようになり、小さい者を無視することがなくなることでしまう。各白すべきこととして神に与えられた働きにつこうとしている人々を見るというのは、何とすばらしく、喜ばしい、しかも厳粛な思想でしようか。彼らは至高なる神の僕であり、それそれか特別な奉仕を割り当てられています。それは驚くべき特権であり、また驚くべき責任でもあります。神が彼らにさせたいと思っておられる働きをしているのは、なんとわすかな人々にすぎないことでしよう。わたしたちだれもが、天が彼に与えた責務からほんのわずかでもそれないように厳重に注意しなければなりません。
わたしたちが覚えていなければならないもうーつのことは、全ての人に仕事をお与えになるのは神であるということです。それぞれが神から指図を受けるのであって、人からではありません。だからわたしたちは他人の義務に関して指図することに慎重でなければなりません。 神は、わたしたちに、わたしたちの義務はっきりと教えてくださるように、彼らにもそうすることがおできになります。そしてもし彼らが神のおっしゃることを間きたくないというのなら、たとえわたしたちがらを正しい道に導くことができるとしても、彼らは耳を傾けようとはしないでしよう。「人の道は自身によるのではなく、歩む人が、その歩みを自分で決めること」はできません(エレミヤ10:23)。だから、まして、だれか他人の歩みを決めることなどできるでしようか。
血肉との相談
「わたしは直ちに、血肉に相談もせす」。この声明は、使徒バウロは福音をどの人間からも受けたのではないということを示す目的でなされています。彼はキリストを見、そして彼を受けいれました。それからアラビヤに行き、その後ダマスコに戻り、回心から三年後までエルサレムに上りませんでした。エルサレムに彼はわすか十五日間しか留まらず、たた二人の使徒に会っただけです。そればかりでなく、兄弟たちは彼を恐れ、最初は彼が弟子であることを信じようとはしませんでした。たから、彼が福音を人間から受けたのではないことははっきりしています。
しかし、パウロが血肉に相談しなかったということがらは、さらに学ぶことがあります。彼には主ご自身の言葉があったので、自分の召しを確かめる必要はありませんでした。しかし彼のような成り行きは決してありふれたことではありません。たとえば、ある人は聖書の中に或る事を読むと、それを思いきって信じる前にだれか他の人の意見を聞かずにはいられません。もし友人がだれも信じなけれは、それを受けいれるのを恐れます。もし牧師あるいは何かの注釈がその聖旬を釈明すると、それで終わってしまいます。血肉は、聖霊とみ言葉に反対させることになります。
あるいは、その戒めがたいへん明白で、その意味をだれかに聞くまでもないこともあるでしよう。すると、わたしはそれができるたろうか、多大な犠牲を払うに価しないのではないだろうかと自問するのです。人が相談し得る血肉でもっとも危険なのは自分の血肉です。他人にたよらないということだけでは十分ではなく、人は、真理のことでは自分にたよらないことが必要です。「心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない」(箴言3 : 5)。「自分の心に頼む者は愚かである、」(箴言28:26)。法王というのは、神だけに権利のある、相談を受ける立場をあえてとる者です。自分自身の勧めに従うことによって、自分を法王とする者は、他人を指図する人と同じくらい悪く、自分以外の法王に従う人よりもいっそうさまよい出て行く傾向があります。もし人がそのような法王に少しでも従うなら、なおさら、なんの矛盾も感じることなく口一マ法王を受けいれることでしょう。なぜなら、彼は他のだれよりも法王として多くの経験かあるです。しかしわたしたちには神の言があるのだから、だれもそんな必要はありません。神が語られる時、知恵の役目は、自分の心にさえ相談せずにすぐに従うことです。主のみ名は「議士(相談者)」であって(イサヤ9 ; 6)、彼は「霊妙なる議士」です。彼に聞きなさい!彼はとこしえにわたしたちの導き手となられるでしょう。
直ちに
この言葉に気をつけてくたさい。パウロは交渉するために立ち止まりませんでした。彼は時間を無駄にしませんでした。彼は教会を追害していた時に、神に仕えているのたと考えていました。そして彼は自分の間違いに気がついた瞬間にぐるりと向きを変えました。ナザレのイエスを見た時、彼を主と認め、ただちに、「主よ、 わたしは何をしたらよいでしようか」と叫びました。彼はその瞬問からすぐ仕事につく用意がありました。これは十分模範に価します。だれもが、「わたしはあなたの戒めを守るのにすみやかでためらいません』詩篇119 :60)。また、「あなたがわたしの心を広くされるとき、わたしはあなたの戒めの道を走ります」と言おうではありませんか(詩篇119 : 32)。
異邦人、異数徒
パウロは、異教徒に宣べ伝えるため、自分にキリストが啓示されたと告げています。別訳では「異教徒」の代わりに、「異邦人」という言葉か使われています。違いはありません。.英語の聖書中では、この二つの言葉はどこで用いられていても、相互に交換できる言葉として使われています。どちらも一つのギリシャ語から訳されているからです。なお、旧約ではヘブル語から訳されています。2、3の例を見てみましよう。
第一コリント12章2節に、「あなたがたがまだ異邦人であった時、誘われるまま、物の言えない偶像のところに引かれて行ったことは、あなたがたの承知している通りである」とあります。これは「異教徒」のことを言う通常の言葉から来ており、この聖句自体が、異邦人とは偶像礼拝者、すなわち異教徒であることを示しています。コリント人は「異邦人であった」ことに注目して下さい.彼らはクリスチャンになることで、そのような者ではなくなりました。「たから、記憶しておきなさい。あなたがたは以前には、肉によれば異邦人であって、手で行った肉の割礼ある者と称せられる人々からは、無割礼の者と呼ばれており、またその当時は、キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約東されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった」(エペソ2 :11、12) 。異邦人であることは、少しも羨ましくない状態であることは確かです。
使徒15章14節では、「神が初めに異邦人たちを顧みて、その中から御名を負う民を選びだされた」と告げられています。そしてヤコプは、アンテオケその他の信者のことを「異邦人の中から神に帰依している人たち」と言いました。神の民は異邦人の中から取り出されましたが、取り出されていることで異邦人ではなくなっています。イスラエルの父アプラハムは、異教徒の中から取り出されました(ヨシュア24 : 2) だから、すべてのイスラエルは異邦人のから取り出されています。こうして異邦人が全部救われる時、「イスラエル人は、すべて救われるであろう」(ローマ11: 25-26)
詩篇2篇1-3節に、次のことを読んでわたしたちは正当だと思います、「なにゆえ、もろもろの国びとは騒ぎたち、もろもろの民はむなしい事をたくらむのか。地のもろもろの王は立ち構え、もろもろのつかきはともに、はかり、主とその油そそがれた者とに逆らって言う(「油注がれた者」とはキリストのことなのだから、これはキリストに逆らってという意味である)、われらは彼のかせをこわし、彼らのきずなを解き捨てるであろう」と」。このことが個々人の場合に成就するのを、何度見ることでしなう。彼らはむなしい勝利を得て叫ぶのです。「異邦人が十戒を守るように命じられている箇所があるならわれわれに示して見よ!」と。彼らはそう言うことで、自分たち異邦人は神の律法から除外されていると考えます。彼らが自分を置いている立場はほめられたものではありません。異邦人は、異邦人としては戒めを守るように命じられていないことは確かです。それは不可能だからです。キリストと、彼にある命の御霊の法則とを受けいれたとたんに、彼らは異邦人ではなくなります。神が、どれはと熱心に人々を異邦人の状態から救おうとされているかは、彼らをご自分のところに来させるために、使徒パウロをおつかわしになったことに示されています。彼はキリスト以外のことは言いませんでした。
異邦人のための預言者
これに関連して、神は三千年前と同じく、今日も異邦人の回心を熱望しておられるということにしばらく注意を払う値打ちはあります。福音は、キリストの初臨後と同様に、それ以前も彼らに宣ペ伝えられていました。パウロは、特別に異邦人につかわされたのですが、キリスト以後、異邦人に宣べ伝えたのは彼が最初ではありません。彼は異邦人への使徒として知られていますが、彼は行くところどこでも、聞いてもらえるかぎり、まずユダヤ人に宣べ伝えました。そのことは、キリスト以前も同じでした。多くの代表者によって、神は、すべての国民にご自身が知られるようになさいましたが、 エレミヤは持に、異邦人あるいは異教徒のための預言者として選ばれました。エレミヤ1章5節に、「わたしはあなたをまだ母のにつくらないさきに、あなたを知り、あなたかまだ生れないさきに、あなたを聖別し、あなたを立てて万国の預言者とした」とあります。「万国」と訳されている言葉のヘブル語は、普通「異教徒」と訳されているものと全く同じです。「何ゆえ もろもろの国人は騒ぎ立ち」(詩篇2 :1)。「もろもろの国民の中に宣べ伝えよ」、「周囲のすべての国民よ、急ぎ来て、集まれ」、その他(ヨエル3 : 9-11)。これらの聖句において、「異邦人」とか「異教徒」という言葉はエレミヤ1章5節の「万国」と同じ言葉です。これは 別訳と比較してみるとわかります。それで、主はエレミヤに、「わたしは、あなたを聖別し、あなたを立てて万国(異邦人)の預言者とした」と言われました。神は、いつの時代でもユダヤ人であれ異邦人であれ、ただーつの国民だけに真理を与えると限定していたなどと、だれも言わないようにしましよう。「ユダヤ人とギリシャ人との差別はない。同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである」(ロー10:12)。
宣ペ伝えている新しい回心者
パウロ回心すると、「ただちに諸会堂でイ工スのことを宣ペ伝え」ました(使徒9 : 20)彼がただちに、しかもそれぽど力強く宣ペ伝えることができたとはまったく驚きてす。誰であっても、キリストを宣べ伝えることができるとは驚きです。誰であれ、真理そのものであるキリストを宣ペ伝えることができるということは、肉の内にキリストが現わされる以上の神秘を含んでいます。しかし、バウロは何も研究しないで、即座にその知識を得たのだとは思わないでいただきたい。被は生涯を通して聖書の忠実な研究者であったことを考えてみてください。ラビが、ヘブル語聖書のかなりの部分または全体を暗唱できるのは珍しいことではありませんでした。彼の同年輩の者にまさって有利な立場にいたパウロが、掛け算九々の表を暗記する利発な生徒のように、聖書の言葉に通じていたのは確かだと思われます。しかし同時に彼の心は、教練された先祖の言伝えによって盲目になっていました。ダマスコへの途上で、光に照らされて彼に起った肓目は、彼の心の盲目が表われたにすぎませんでした。そして、アナニヤが彼に話しかけたときに落ちた目のうろこのようなものは、彼の内にみことばが輝き出たこと、また、言伝えの暗やみが追い払われたことを示してもいました。パウロの場合は、聖書を読んだこともなく研究したこともない新しい回心者の場合とはとても違っていました。実のところ、そのような人は、キリストが自分のためにして下さったこと、それゆえにこれからも良いことをして下さるということを告げることはできます。しかし、人々に命の道を完全に示し、義の道へと導くことができるには、聖書研究がもっともっと必要です。
アラヒヤのパウロ
多くの人々が、パウロがすばらしい啓示を受け、天にあげられて「人間が語ってはならない言葉を聞いた」(第2コリント12:4)のは、アラピヤに彼がいたときのことだと考えています。彼の天についての幻をその時に限定するのは意味のないことではあるけれども、そう考えてもよいでしょう。一生を通じて、使徒は天との緊密な交わりを持っていたので、「天の幻」は決して彼の視野から隠されたことはなかったと確信していいのです。それに、宣教が彼の一生の仕事だったので、彼はアラビヤで研究と黙想に全時間を費やしたのではないことも確かだと思われます。彼はひじょうに厳しい追害者であったのに、神の恵みを非常に豊かに受けたので、「もし福音を宣ペ伝えないなら、わたしはわざわいである」(第一コリント9:16)と感じ、他の人々にその恵みを現わす事ができないことは、すべて時間の無駄としました。彼は回心するとすぐ、アラビヤに行く前に、ダマスコの会堂で説教をしました。だから、彼がアラビヤ人に福音を宣ペ伝えたと結論づけるのはごく自然なことです。彼はそこで、ユダヤ人の間で常に受けたような反対を受けることなく説教することができました。だから、そこでの働きは、彼の前に開かれた新しい世界のことを思いめぐらすのに、それほど多くの障害とはならなかったことでしよう。
説教する迫害者
「以前には撲滅しようとしていたその信仰を 、今は宣ペ伝えている」のを聞くのは、本当にすはらしいことでした。タルソのサウロの場合を見てください。そして福音のどんな反対者であっても、その人をどうしようもない者だとは見ないようにしましよう。反対する者を柔和に導く必要があります。なぜなら、神以外のだれが、彼が海い改め、真理を認めるよらになることを知っているでしょうか。パウロはおよそ人の持ち得るだけのはっきりとした光を持っていた、と言う人がだれかいるかも知れません。彼にあらゆる機会がありました。彼はステパノの霊感にみちた証を聞いただけではなく、多くの殉教者たちの死に際しての告白を聞きました。当時の彼は、どんな良いことも期待出来ない無慈悲な恥知らずでした。しかし、最も苦々しい追害者であったサウロ、その同じサウロが福音の最も偉大な宣教者になりました。真理に対する悪意ある反対者があなたの周囲にいるでしょうか。彼と争ってはなりせん、彼を非難してはなりません。神の言葉と祈りにすがって、その間に、彼が自分をまったく苦々しく思い、自分自身と争うようにさせなさい。そうすれば、今は彼によって汚されている神が、彼にあって栄光となるまでそう長くはかからないでしよう。
神ほめたたえる
「わたしのことで神をはめたたえた」と言ったパウロの場合と、「神の御名は、あなたがたのゆえに異邦人の間で汚されている」(ローマ 2 : 24)と言われた人々の場合とはどんなに違っていたことでしようか。神に従うと告自する者はすべて、神の御名に栄光をもたらすものとなるべきです。それなのに、多くの者は神を汚す道をたどります。そして、わたしたちを通して神の御名が汚されることは、わたしたちが自分の口であからさまに神の御名を汚すのと同じくらい悪いことです。わたしたちはどうしたら御名をあがめることができるでしょうか。「あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなざい」(マタイ5 :16)
総括
この章全体を簡単にまとめてみましょう。
最初の5節を含むあいさつの言葉は、書簡を書いた人の名前と召しと権威とを告げています。それは、キリストは神であるという事実に注意を向けさせます。祝福が、父なる神と御子キリストから告けられています。キリストは、わたしたちを今の悪の世から解放するために、わたしたちの罪のためにご自身をきさげられました、つまりそれらを買いとられました。わたしたちの罪はこの世の悪を作っています。わたしたちの罪は、わたしたちにではなく、キリストに属します。だから、彼がわたしにちの罪のためにご自身をささげられた死と復活の力により、わたしたちは罪から離れることができます。わたしたちを救うのは神の御旨ですから、わたしたちが神に受けいれられることを疑うことはできません。栄光は神に属します。なぜなら御国と力は神のものだからです。
続く二つの聖句は、この手紙が書かれた当時の、ガラデヤの諸教会の状態を示しているので、なぜこれが書かれたのかわかります。彼らは神から離れており、信じる者をすべて救う神の力であるただひとつの福音の代わりに、キリストの福音を曲げてまやかしの福音を宣教している人々によって迷わされていました。その驚くべきことは、エレミヤ12章12、13節にに表現されていることと同じです、「「天よ、この事を知って驚け、おののけ、いたく恐れよ」と主は言われる。「それは、わたしの民が二つの悪しき事を行ったからである。すなわち生ける水の源であるわたしを捨てて、自分で水ためを掘った。それは、こわれた水ためで、水を入れておくことのできないものだ」」。
それから次の二つの聖句(8, 9節)では、使徒が宣べ伝えた以外の別の福音をあえて教える者は、使徒自身であろうと、天からの御使であろうと、のろいが宣告されているということがわかりました。このことは状況の深刻さを示しています。ガラテヤの兄第たちは偽の福音を宣ペ伝えた忌むべき説教者たちによってのろいのもとに置かれていました。
これに続いて、10-12節では、使徒は、自分は人ではなく神を喜ばそうとしているのだからキリストの僕だと言っています。人の方に魂をそらす説教者は、自分に弟子を引きつけようとして、なめらかなこと、人の性質と調和することを口にします。パウロは人からではなく、直接神から受けた、神についての簡潔な真理だけを宣ペ伝えました。
後半では、第2章の半ばまで続く個人的な経験の小さな物語が始まります。ここでパウロは、教会を追害していた回心前の生活について述べ、彼の内にキリストが示された回心のことに触れ、彼がなぜ召されたのか、どれほど速かにそれに応じたかを語っています。そして最後に、回心の後何年間も信者たちと交わりがなかったので、彼が望んだにもかかわらず、先輩の信者たちの兄弟や使徒たちから福音を受ける機会かなかったことを示しています。その主旨は、先に進むにつれてさらに明らかになるでしょう
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