この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。(コロサイの信徒への手紙1章27、28節)
「あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望」。これが福音です。この信仰と行いの問題については、一片の誤解の余地もありません。キリストはかつてこの世におられました。しかし、ご自分では何もなさいませんでした。キリストは「わたしは自分では何もできない」と言われたのです(ヨハネ5:30)。なぜなら、御父がキリストの内におられ、御業をなさったからです。キリストは、「わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである」(ヨハネ14:10)。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と言われました(ヨハネ20:21)。
神がキリストのうちにおられたように、キリストも私たちのうちにいてくださいます。イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのないお方ではないでしょうか。はい、そうです。キリストは、地上で私たちと同じ肉体を持っておられたとき、どのように行動されたでしょうか。方々を巡り歩いて人々を助け、病人をいやされ、同情なさいました。では今、私たちの肉の内におられるとき、主はどのように行動されるでしょうか。同じようになさるでしょう。
それなら、イエス・キリストを信じる信仰を持つ人のうちに、行いが自然に現れることが、おわかりになるでしょうか。悪魔的な信仰という意味ではなく、信仰を持っている人のことです。そうであれば、キリストよりも行いに心を奪われている人々が見逃しているのが何なのか、おわかりになるのではないでしょうか。彼らは、それさえあれば良い行いをすることができる、まさにその動機と力を見逃しているのです。それはあなたの内におられるキリストです。そして、キリストがあなたとともにおられ、あなたのうちにおられるとき、「彼らはイエスに似ている」と世の人々からさえ言われるようになるのです。
義が信仰によるものかどうか、誤解を与える余地はあるでしょうか。信仰による義認は、それ自体が、神の道にあって働く神の生ける徳そのものを携えているのです。
神におゆだねし、神の道、すなわち初めも終わりもキリストを求める心を持っている人は、キリストを知るようになり、また、イエス・キリストを信じる信仰が神の臨在と神の力をもたらすことを知るようになります。なぜかというと、それを切り離すことはできないからです。神の命、神の力、神の言葉がその中にあるのです。[1]
注
1. 世界総会報、301ページ
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